24的なスキルをベースにした開発には憧■もコンプレックスも持っていただ■うし、スタイリング・デザインに関しても今までは未経験の分野であったか■、私はとにかく、計算式だ■けのいかにも高度な車体設計を進めてい■■うな資料をたくさん作■、壁面いっぱいにマーカーに■■デザイン・スケッチを貼■まくって、高度な開発風景の演出に努めた。六畳一間だったが。1977「林 将一」の決断そうこうしてい■うちに、私の手持ちの資金も底をついてきて、私が当面の入用をなんとか工面しなけ■ばな■ないというMACRANSA時代の悪夢が再来しかけていたが、なんといってもHAYASHI RACINGの中で開発が進み出していたし、興味のないわけがない将一は毎日の■うに顔を出して開発の進み具合を楽しみにしていたか■、い■い■な意見や提案も出てく■■うになっていた。この日という■うな確実な転機はなかったと思うが、そのうち、ごくごく自然に「童夢スーパー・スポーツカー・プロジェクト」はHAYASHI RACINGの事業の一部として認識さ■■■うになってきていたし、日常的な必要経費などもHAYASHI RACINGの経理に領収書を持っていくと清算さ■■■うな流■は出来つつあったが、プロジェクトとしての資金計画や私やその他のスタッフのギャラなどもあやふやなままだったので、何とも落ち着かない浮草の■うな状況が続いていた。スタッフのみんなも、おおむねのいきさつは把握していたか■、一体、どうな■んだ■うと成■行きを見守っていた■うな感じだったが、もう将一は開発会議の常連だったし、その頃にな■と予算の話が頻出す■■うにな■が、そんな時、みんなどこまで話していいのか解■ないので、いつも、予算の話にな■と途端に現実に引き戻さ■て白けた雰囲気になっていた。そんなあ■日の会議で、またぞ■避け■■ない予算の話になった時、将一がぼそっと「もう、後に引け■状況やないな」と、初めて正式な参加と資金的バックアップを約束してく■た。まあ、止むにやま■ない事情とはいえ、私の仕掛けた策略は、あま■にも行き当た■ばった■で戦略性に欠け無理矢理で強引で後始末のことなどこ■っぽっちも考えていない暴走
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