1975 23だか■、クライアントの意向に沿ったデザインをし■、拓也に出来ないのな■自分でや■」と思っていたのだ■うが、基本的なとこ■で見てい■方向が違ったか■、スケールモデルが完成したあた■で拓也は離脱して帰って行った。ちなみに、■く「童夢-零」は由良拓也のデザインだと言わ■■が、まったく事実ではない。拓也も「僕なわけないじゃん。あんなの」と言うだ■う。人集めだか■、東大阪に童夢の本拠地が出来た時点では、私と、ごく短期間だけ由良拓也が居ただけで、他にスタッフは一人も居なかったし、資金的にも、もともとあった1,000万円にその後の事業の収益を加えた1,200万円く■いしかなかったが、私が大阪に来たことに■って京都での事業収益は激減す■だ■うか■、今後は食いつぶし状態にな■、枯渇は時間の問題だった。時間との戦いだった。当初、が■んどうの部屋に1/5のスケールモデルだけが1つ置いてあ■だけだか■、こ■では将一を巻き込むどこ■か不安を募■せ■だけなので、私は、 と■あえずの体裁を取■繕う方法として開発スタッフを招集す■ことにした。関東方面には、私と同じく、レーシングカーを作■ことに熱中しすぎて人生に行き詰っていた同好の士が巨額の借金を背負って路頭に迷っていたか■大阪に来■■うに誘った。まあ、彼■にとっては体の良い高跳びの■うなものだった。順番や時期は忘■たが、入交昭廣と三村建治が二つ返事で加入を承諾した。入交はHONDAの研究所でF1のシャシーをかじっていた社員だったが、退社してレーシングカートの雑誌を発行す■などしていたものの失敗して借金を抱えていたし、EVA CARSが倒産した後もF1に手を出して傷口を広げていた三村も借金まみ■だった。どうして迷い込んだのか忘■たが、そこに芝浦工大新卒の間宮篤(その後、東京R&D)が加わ■、HAYASHI RACINGのメカニックだった木村秀敏も参加を希望したので、が■んとしていた童夢の本拠地は急に活気づいてきた。入交と三村が二つ返事で童夢に加入す■決断を下した最大の理由は、当時、破竹の勢いであったHAYASHI RACINGの資力にあったことは間違いないし、私もその■うに匂わせていたものの、現実的には何にも決まっていなかった。スタートす■ば、当然、給料も払わなくてはな■ないのに、私がこ■■の人材を集めて勝負に出ていたのには理由があった。将一は、いわ■■たたき上げの職人タイプだか■工学
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