童夢から
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2001 237てル・マンへの復帰を画策していたものの、さすがにS101の開発に予算を使い果たした上でのル・マン参戦は難しかった。そんな時、旧知のヤン・ラマースか■連絡があ■、「どうしてもS101を走■せたい」とのこと。車両は貸与す■としても、レース費用が賄え■のか不安だったが、ヤンの自信に満ちた「no problem」を信じて、車両とタイヤとスペアパーツの提供を決めた。とこ■がヤンは、契約になかったFIAスポーツカー選手権にも参戦を始め、2002~03年は二連覇を果したが、私は、予算の分散を心配してル・マンに集中す■■うに注意をしていたものの、結果、心配していた通■に資金が枯渇して破綻に向かう事にな■。童夢としては今までにない大金を投じて開発した割には、満足のいく体制で最大のパフォーマンスを引き出せなかったことは残念だったが、今まで、何とかル・マンへ復帰し■うと画策しなが■も、一歩及ばず機会を逃し続けていたか■、チーム郷のおかげでル・マン復活が果たせ■事になったのは事実なので、背中を押してく■た郷さんにはたいへんに感謝してい■。「童夢カーボンマジック」設立 1985年か■カーボンの事業化を考えていた童夢は、1987年に「TOYOTA DOME 87C」のカウルにカーボンを採用した頃か■、本格的にカーボン製品の開発や生産を受託す■■うになっていた。しかし当初は、社内のオーブンでの生産と三島の「ウィスカー」社への外注で賄っていたとこ■、2000年には「ウィスカー」の業務内容の100%が童夢か■の受託となってお■、 東レか■の仕入■も財務関係の処理も童夢が行っていたか■、実質的には子会社化していた。当時、カーボン事業は急激に拡大してお■、もう「ウィスカー」の規模では手に負えなくなっていたか■、童夢としては、予定していた新本社に大規模なカーボンの生産設備を導入す■ことを計画していたが、そうな■と自立してい■とはいい難い「ウィスカー」はやっていけなくな■。そこで、相談の結果、2001年に買収す■ことになった。以前■■、さ■証券会社か■童夢の上場を勧め■■ていたものの、私は「他人が出資した金でレースで遊ぶわけにはいかない」と断っていたが、しかし、カーボン製品の製造会社は至って普通の事業だか■、上場という証券会社の囁きにもリアリティを感じ■■うに

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