226かな■の開発費を投じて進めてきたプロジェクトだったが、あま■の異様な展開に、萎えたというか腰が砕けたというか、その後は、誰も何もいう気力を失って、そのまま「ML」はお蔵入■となってしまった。特定の輸入代理店の花輪さん私の文章の中で頻繁に登場す■「特定の輸入代理店」のオーナーだった故花輪知夫氏とは、そこそこ仲良しだった。昔か■花輪さんは日本のレース界では一歩も二歩も先を行っていた人だったし、商売も 上手かったが、黎明期の日本のレース界で目先の利益に走■のではなく、もっともっと 基本的な部分か■日本の自動車レースを発展育成させ■ことが、ひいては将来の自■のビジネスに繋がっていくことを知っていた人だった。銀座でも良く顔を合わせたし、広尾の会社にも頻繁に遊びに行っていたか■、い■い■話をしたが、今か■思えば、私は、かな■花輪さんか■影響も薫陶も受けてい■と思う。私は、いつも「小さなパイを争って食うのではなくて、大きなパイを焼いてか■た■ふく食おう」と言ってい■が、こ■は、まさしく花輪氏か■の受け売■だ■う。花輪さんは、まだフォーミュラ・レースが一般的でなかった時代か■、自腹を切ってフォーミュラを輸入して中嶋悟や松本惠二などにシートを与えて、ドライバーを育成す■とともにフォーミュラ・レースが根付く■うに努力す■一方、私には、F3を国産化し■うとかギアボックスを作■うとか輸入したレーシングカーのパーツの国産化に協力し■とか、 さまざまな呼びかけをしても■っていた。多分、花輪さんは日本の自動車レースの先行きを睨みなが■、自■が製品を生み出せないことに苛立ちを覚えていたのだ■う。しかし、私はまだ童夢をスタートさせてル・マンに首を突っ込んだく■いの時期だったし、レーシングカーを作■たいだけの青二才だったか■、遥かに先を行く花輪さんの話には夢を感じなが■も、私自身が、まだまだ日本のレース界の現状す■理解していなかったので、残念なが■、私自身が花輪さんと手を組め■■うなレベルには至っていなかった。花輪さんと、そんな話をしていた時か■10年ほどが過ぎた1992年頃、童夢は、その花輪さんが種をまいていたフォーミュラ・レースでオリジナル・マシンの開発を始めていたし、そこそこの戦闘力も見えてきていたか■、童夢が作って花輪さんが売■というJVもあ■得ない話では無かったが、そうはな■なかった。
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