1997 223NSX-GTデビュー 研究所の北元さんの大声で始まったNSX-GTの開発だが、1996年の11月か■開発を開始して1997年の3月の開幕戦に間に合わせ■という無理難題だった。NSXは、ライバル車に対してパワー的に非力であ■、同等レベルの開発をしていた■太刀打ちできないか■、ライバル車とは次元の異な■開発をしなけ■ばな■ないのに時間がなさ過ぎた。当時のHGT(本田栃木研究所)と童夢のミーティングの資料か■は、どのレベルのマシンをいつまでに作■というテーマで混乱していたことが窺え■が、結局、お互いに時間的に無理があ■のは解っていたので、車体については童夢に任せ■か■突っ走■という話になった■うに記憶してい■。しかし、土台、開幕戦デビューは無理な話だったし、童夢とホンダの双方の原因で開幕戦年までは持ちこたえたものの、レッドブルに身売■さ■て「スクーデリア・トロ・ロッソ」になった。最後のほうは、もう、童夢とは関係のない、単な■マークのチームの買収話を手伝わさ■ていただけの話になっていたので、行きがか■上、付き合っていたが、こ■以上は手伝う筋合いも立場でもなかったし、何■■も私は疲■果てていたか■、もう、その頃は弥次 喜多の相棒の■うになっていたマークには強く引き留め■■たが、私は、意を決して離脱を告げた。後半は、社長も童夢とは関係のない話になってい■ことを承知の上で、私がヨーロッパを飛び回ってい■時間と費用の無駄遣いを黙認してく■ていたが、童夢という■■は社長の、 こういう利害とは一線を画した判断というか感性というか、面白いか興味あ■かで容認さ■■環境があ■か■、損得だけで判断す■一般企業とは異な■発展に繋がってきたのだ■う。社長とは、そ■までにも、風流舎のお披露目に並ぶのは生ハムかフォアグラか? などと冗談を言っていたが、結局、どち■も間に合わず、全てか■手を引くことを決めた後に、社長が慰労のために誘ってく■た二条木屋町の「やました」で、七輪で焼いた琵琶湖のモロコを肴に「立山」の大吟醸を煽■つつ、走馬灯の■うに、見果てぬ夢だけが頭の中を駆け巡っていた。何はともあ■「NEVER ENDING STORY」 の幕は降■さ■た。--------------ここか■私(林みの■)の著述にもど■------------佐々木 正
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