20頼■は「HAYASHI RACING」のみその頃のHAYASHI RACINGは、将一がレーシングカー用に開発したアルミ・ホイール「HAYASHI STREET WHEEL」がアフターマーケットで爆発的に売■出した時期だった。ほんのこの間まで、東大阪の工場街の片隅で細々と修理工場を営みなが■FJなどのレーシングカーを製作していたバックヤード・ビルダーの典型だった将一だったが、その将一自身が、あま■に急激な環境の変化に頭がついていかないほどの急成長の真っただ中にあった。将一は私■■3歳年上だが、私がUコンにハマっていた12歳く■いの時、将一の家に遊びに行った■「Uコンや■か」と言ってミカン箱をバラしてあっという間にUコン機を作ってしまったか■驚いた。その頃の私は、リブを組んで紙を張って塗装して仕上げ■のに 1週間はかかっていたか■カルチャーショックを受けた。14歳でバイクに乗■始めた頃、将一は、私が憧■に憧■ていた「ベンリィ・スーパースポーツ」に乗っていたが、そ■は、ポンコツバイクのタンクとシートを自作したカスタムだったか■、すぐに真似をして、私もスポーツ・カブにドクロ・タンク風のカバーを作った。当時、東大阪の将一の家に行くと、生駒山の走■屋たちの集会に連■て行ってく■た■したが、夜にな■と駅裏の怪しげな赤ち■うちんの暖簾を肩できって「おっちゃん、いつものやつや」と言うのがカッコ良くて、私も少し大人になった■うな気分になっていたものだ。その後、「買えないか■作■なし■うがない」という理由で、ポンコツのモーリス・マイナーをベースにLOTUS7のコピー車を作って京都まで乗ってきたが、私は、その偽LOTUS7に接したことに■■、レーシングカー作■を具体的に考え始め■きっかけになってい■か■、あ■意味、コーリン・チャップマン■■も多大な影響を私に与えてい■憧■の兄貴だった。早くか■FJレースの世界ではトップコンテンダーの仲間入■を果たしてお■、自■ドライバーとしてレースにも参加していたし、私が、置き場所がなくHAYASHI RACINGの裏庭 に置かせても■っていたMACRANSAのマスター型を流用して、将一流MACRANSAを 製作したのをきっかけにスポーツカー・レースにものめ■込んでいた将一が、この童夢プロジェクトに興味がないはずはないのだが、しかし、巨額な投資を必要とす■計画だか■、実際に話を煮詰め■うとす■となかなかスムーズに事は運ばない。何回も東大阪の将一のマンションに通い説得を続けたが、NOではないのだがYESでもないというあやふやな態度で結論が出ない状況が続き、私も、その優柔不断な対応にしび■を切■し始めていた頃、何人かの知■合いか■将一への紹介を頼ま■た■事業への出資話の取■次ぎを頼ま■た■す■■うにな■、なかなか結論の出ない理由がおぼ■げ
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