童夢から
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216優■た童夢に対す■認識も変わっていたので、もう少しでジョイントが出来そうな惜しい場面も有った。1994年か■、ミナルディはスクーデリア・イタリアと合併す■ことになったので私はチームを離■、い■い■童夢F1プロジェクトに専念す■こととなったのだが、その後も引き続きミナルディとの良好な関係は続き、社長がファエンツァへ行った■ジャンカルロが 京都へ来た■と、交遊は深まっていた。その後、経営が行き詰ってブリアトーレにチームの株を差し出さざ■を得なくな■、そ■がルーミさんに委譲さ■てか■はジャンカルロの立場も考え方もかな■変化し、自動車メーカーの参入度合いが高ま■につ■て、当時、ヨーロッパのレース界ではホンダの関連会社の■うに見■■ていた童夢への関心が高まったのか、童夢が設計・先行開発を行い ミナルディが製作・レース運営を行うといったシナリオが具現化しそうな雰囲気も見えてきていた。社長も実感として、「以前のジャンカルロだった■難しかっただ■うけど、今度は何とかな■そうやね」と言っていたのだが、我々の思いとは別の所に大きな壁が待ち受けていた。ルーミさんだ。一代で大ホイール・メーカーを築き上げたルーミさんとは10年来の付き合いだ。フォンドメタル・オゼッラF1時代には同じピレリ・タイヤ・チームということもあ■親しかったし、スクーデリア・イタリアとの合併話が出た頃は、どうせな■本当にレースが好きなルーミさんと組んだほうが良いのではと思う事があった程、仲も良かった。だか■、この交渉は簡単にまとま■ものと思っていた我々は、意外に強硬なミナルディ側の態度に、やや思惑が外■■が、こ■には当時のチームのメイン・スポンサーであった、 スペインのTelefonica 社の存在に■■とこ■が大きいことが分かった。この頃、Telefonica社は内々にミナルディの買収を検討してお■、ミナルディ側も勿論そ■に賭けていた。その時点では、ミナルディにとってはマークの話は単な■押さえの■うな状況だった。とは言え、ジャンカルロが提案したTelefonica社との交渉は、当然、彼を中心に進んでお■、成功の暁には復権したジャンカルロが童夢とのジョイント構想を推進す■というシナリオになっていた。事実、ジャンカルロか■の依頼で童夢とミナルディがタイアップして参戦す■Telefonica社向けの企画書を何度となく提出していた。こうな■と、童夢にとってはどち■に転んでも良い■うにも見え■が、そうは問屋が卸さなかった。

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