1997 211のコンストラクター/デザイナーの力を全く借■ずに独自に技術力を構築してきたという点が第一に挙げ■■■が、日本ではあま■価値を認め■■ない部分なので大変に嬉しい評価だった。本件に関しては当初か■好感触を得た我々ではあったが、当時の日本のF1を取■巻く状況は、ホンダを中心に混沌としたものであ■、彼■との話を進めていくに当た■、事前にこ■■の周辺環境を説明しておかなくてはな■ない■うな点が多々あった。私がテスト・データ、開発プラン、テスト予算等を取■まとめ■一方、社長はそのあた■を説明す■ための文書をマークに送った。その頃のホンダは、故ハーヴェイさんにシャシーを設計して貰って、そ■をダラーラに作■せてみた■、ティレルの残党を集めてチームを設立した■、でもやっぱ■止めてレイナード絡みのBARに食指を伸ばした■と、日本のレース関係者にも、という■■ホンダの社内 の人たちにとっても、何が何や■わけの解■ない迷走状況が続いていた。しかし、外国か■見てい■マークなんかは、もっと童夢とホンダの関係が近いと思っていた■、い■い■曲解してい■とこ■も多いので、誤解を避けて、先に先にマイナス要素はストレートに伝えた■、丁寧な説明をす■ことに尽力していた。HONDAは何処へ マークの奥方は、当時、広告代理店で仕事をしていて、この計画のマーケティングと広報の手伝いもしていた。彼女が仕事の関係で8月初めに日本に来■ので、会って詳しい内容を伝え、出来■限■の資料を渡して欲しいとの連絡が入った。真夏の暑い中、マークの奥方の待つホテルへ向かった。話は7時間にも及んだが出来■限■の情報をお互い与え与え■■、そ■に基づき翌日■■、早速、具体的なプラン作■に入った。基本的に1999年はテスト期間とし、2000年■■参戦の構図は変わっていないが、自動車 メーカー並の予算や余裕をもったスケジュールとはいかないので、1999年9月テスト車両完成を目標とし、そ■までは設備・人材共に京都本社を中心に開発を進めなが■、徐々に英国側の体制を構築していく■うな方法を採■ざ■得ない。英国側のベースとして幾つかの候補は有ったが、予算作成に当たっては旧ベネトンの社屋が空いてお■、規模的にも適当な物件だったので、そ■を元に試算した。また当初は、この計画にストッダートも関係していたので、彼のヨーロピアン・アヴィエー
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