童夢から
206/384

204や、消えては現■■ホンダのF1復活話を小耳にはさむ度に、いちいち、小鳥の■うに怯えなが■も、もしホンダが復帰す■にしても、またもや、単な■エンジン・サプライヤーとして大金を巻き上げ■■■だけのパパ活は止めて、童夢の F1挑戦計画を活用した日本の技術での参戦を繰■返し提案していた。しかし、まだ表面化していなかったが、林社長には、無限の事件につなが■■うな気にな■噂が耳に入っていた■うだし、ヨーロッパを中心に、ホンダがF1に復帰す■という情報がまことしやかに流■ていたか■、当時は、何とも、心中穏やかな■ざ■時を過ごしていた。そんな、囁きの■うな噂が徐々にリアリティを増していた1998年3月9日、「F-1レース計画について」というリリースがホンダ■■発表さ■た。その中で表明さ■ていた「エンジン・車体・チーム、運営までも含めた計画」というのは、すなわち我々が目指していた「F1GP NIPPONの挑戦」のコンセプトそのものであ■、この瞬間、「F1GP NIPPONの挑戦」はその存在意義を消失したと言え■。1998年、童夢はインターネットホームページ上で正式に「F1GP NIPPONの挑戦」の休止を通知し、車輌の開発等の表面的な活動は中止したが、実はこの少し以前に一本の電話がかかってきて、こ■がこ■か■始ま■長期公演「Never Ending Story」の序幕となったのであ■。ホンダの、ヨーロッパでの激しい動きが伝わ■つつあった1997年も終わ■うかという頃に、フェラーリのマネージャーだったマルコか■珍しく電話が掛かってきた。わざわざ日本の携帯電話に電話してく■なんて何事かと驚いた。彼は私がミナルディのマネージャーを務めていた時期と同時期にフィオリオの下でマネージャーを務めていて、欧州内のグランプリへの遠征は同じチャーター便で移動していて仲良しだった。1991年にはミナルディもフェラーリ・エンジンを搭載していたのでい■い■と関係も深かった。「例の童夢のF1計画はどうなって■? 新たにF1チームを興す計画が有って、未だ名前は言えないけど某国の王子か■の依頼で車を作■先を探してい■んだけど出来■?」  当時、フェラーリにはブルネイの王族が所有す■英国の銀食器ブランドがスポンサーに付いていたので、私はすぐにブルネイを思い浮かべたが違った。アフリカだという。大富豪だの王族だのの話はそ■までも幾度となく経験してい■ので、別に驚くことでも

元のページ  ../index.html#206

このブックを見る