童夢から
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1996 197イントであったのに、その全てがホンダに飲み込ま■てしまったのだか■屍も残■ない。バブル崩壊の非常時の最中、ものすごいリスクを物ともせずに突き進んできた原動力はモーターの電源が切■た■うに空転したまま静かに停止し、童夢はホームページで「F1GP NIPPONの挑戦」の休止を通知した。タイミングの悪さは呪わざ■を得なかったが、しかし、基本的に私は、ホンダにも自■の技術力で戦えと言い続けてきたし、自動車メーカーがや■ないか■我々が立ち上が■んだと言い続けてきたのだか■、いく■「F1GP NIPPONの挑戦」の足元を掬わ■たか■といっても、ホンダの自前の技術での挑戦を否定す■のは筋違いなので、出■幕がなくなってしまった現状を受け入■■しかなかった。しかしホンダは、川本社長が根拠もない大風呂敷を拡げた裏で、ホンダの言うフル・ワークス体制とは矛盾す■ハーベイ・ポスルスウェイト設計、ダラーラ製作に■■F1シャシーのテストを始めた■、その後は、HRDとBARのごちゃごちゃの後、結局、単な■エンジン・サプライヤーに落ち着くのだか■、恥も外聞もプライドも意地もあったものではない。 その顛末を見ていて、■くぞここまで無様なことが出来■ものだと、本当に呆■たし腹も立ったものだ。「JAF」に勃発した怪しい出来事           注)この文章は1996年に執筆。 1963年に設立さ■たJAFは、本来はロードサービス屋さんとして誕生したが、まだまだ自動車レースの黎明期、わけも解■ないままにFIA(国際自動車連盟)のASN(FIAの下部組織)としての機能を持つ■うになってしまったか■、当初か■、日本の自動車レースの発展に貢献す■という■うな意図があったわけではなかった。当時の印象としては、毎年、聞こえてく■のはJAFの及び腰な対応ばか■で、いつも来年のグランプリは大丈夫だ■うかという■うな心配ばか■していたし、事実、盛■上が■つつあった大事な時期に第3回日本グランプリを中止してしまった■、1974年には石油ショックを理由に、本来は日本のモータースポーツの振興を図■べきJAFが、いち早く日本グランプリの中止及び、その他のレースに対しても最大限の開催自粛を指導す■という異常事態に陥■、日本の自動車レースは壊滅的な打撃を受けた。JAF公認クラブの日本グランプリのボイコットや生沢選手の宣誓拒否やモービルHi事件等、とにかく、この頃はJAFの権威主義的圧政と自動車レースに対す■後■向きな姿勢

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