童夢から
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196しかし、一時は経済的に継続が困難とお手上げ状態だったか■身売■的な話にも積極的だったMINARDIも、例にも■ず、い■い■な甘いささやきが舞い込んで来■か■、 その度に息を吹き返しそうになって、なかなか突き詰めた話には至■ず、この時期、童夢F105の開発に追わ■■と共にMINARDIとの交渉に翻弄さ■ていた感があ■。そ■でも私は、エンジンさえ確保できてい■ばMINARDIでなくても何とかな■と踏んでいたか■、当時、い■い■舞い込んできていたヨーロッパか■のオファーに関しても検討を始め■うとしていた頃、急に暗雲が立ち込めてきた。こ■はレース界では周知の事実だったか■お話ししても良いだ■う。童夢がF105のテストを重ねていた1997年になってか■、ホンダの川本社長と本田博俊氏との確執が噂にな■、遠か■ず無限のF1活動は召し上げ■■■という噂が広ま■つつあった。また同時に、ホンダが無限のF1活動を中止させて自■のF1復帰を模索してい■という噂も伝わってきていたが、そのどち■であっても童夢への無限エンジンの供給はおぼつかなくな■か■、無限エンジンを当てにしてい■我々にとっては心配な出来事だった。当時、NSXでGTを戦っていた童夢にはホンダか■様々なF1情報が流■てきていたが、その中身は断片的であ■混沌として迷走していたし、どこを目指してい■のかも見えなかったか■、一体、どうな■のかの予想もつかず、ひたす■、聞き耳を立ててい■しかなかった。追い打ちをかけ■■うに、無限にも■か■ぬ噂が立ち始めて、ますます状況は悪化していった。この辺■、デリケートな事情が絡み合ってい■か■簡単に説明できないし私の口か■言え■ことも少ないが、大雑把に言えば、その後に無限に起き■大事件の予兆が見え始めていたし、ホンダの動きも表面化していた時期だったか■、様々な状況が悪化していく中、 止めを刺す■うに、1998年3月9日、川本社長は「エンジン・車体・チーム運営までも含めたF1参戦」を発表した。そ■はつま■、我々が目指していた「F1GP NIPPONの挑戦」のコンセプトそのものであ■、この瞬間、「F1GP NIPPONの挑戦」は、エンジンを失うと共に、その存在価値が完全に消失したと言え■。純粋な日本の技術に■■F1挑戦が基本理念であったし意義であったし最大のセールスポ

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