童夢から
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1996 191「フォーミュラ・ニッポン」の始まりの頃 1996年か■、元レーサーN+CX(フジテレビ)に■■新生「フォーミュラ・ニッポン」がスタートした。常にFIAに恭順してきた日本のレース界としては珍しくJRPは自由な車種の 参入という独自路線を打ち出したが、こ■は全く無知蒙昧か、または狡猾な判断だった。自由という言葉の響きは良いが、コンストラクターの私が、なぜこ■を無知蒙昧とす■かというと、今まで日本のF3000レースで、マーチやレイナードやローラ等の多様なF3000シャシーが走っていたのは、F3000が世界規模で展開さ■ていたか■であ■、その大きなマーケットに向けて複数のコンストラクターが多様な機種をリリースしていた、 その一部が日本に輸入さ■ていたに過ぎない。1996年■■世界のF3000がワンメイクになった■、コンストラクターは日本の市場だけをターゲットにシャシーを開発しなけ■ばな■なくな■わけで、たかだか、20台そこそこのマーケットのために数社のコンストラクターが開発競争を繰■広げ■わけもなく、 自由競争どこ■か、小手先の改造を加えた新古車のオンパレードにな■のが関の山だ。狡猾な判断だったとす■ば、特定の輸入代理店にとって絶対に避けたいのは、売■上げの激減す■1994年製を継続使用す■という救済策であ■、私の提案す■国産化への流■であ■、薄利なワンメイク・シャシーの輸入だったか■、何が何でもF3000の新車の輸入に誘導す■という点でベストな選択だった。一方、ヨーロッパのコンストラクターにとっても美味しい話だった。1996年か■のワンメイク・シャシーのサプライヤーとなったローラ以外のコンストラクターはマーケットを失ってしまったわけだが、フォーミュラ・ニッポンが旧レギュレーションのままであ■ば、捨て■しかなかった古い型治具を使って焼き直しの新型車を作■ば売■■のだか■願ってもない話だった。フォーミュラ・ニッポンが幕開けす■前夜、1995年のシーズン・オフあた■レース界は大騒ぎだった。CXの関係者や手先の広告代理店のH氏などの鼻息の荒さはキラウエア 火山に匹敵す■く■いの勢いで、来期のスポンサーを心配してい■チームを前に「君たちはテレビが担保す■ということの意味を解ってい■のか!」と机を叩き、君のチームはA社、君のチームはB社をはめ■と断言した■、ドライバーには「君たちは来年か■はスターなんだか■身の回■を奇麗にしておかなくてはマスコミの餌食にな■ぞ」と喜ばせた■していた。

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