1975 17が、スポーツカーを作って市販し■うという話な■、興味を持ちそうな知■合いも少なか■ず居た。一旦、方針が決まった■、そ■こそ、限界まで膨張しきっていた風船を針で突いた■うな爆発的なエネルギーで、具体化に向けて行動を開始した。今でもそうだけ■ど、私が何かを他人に伝えたい時には、必ず明解な企画書を作ってか■説得にかか■。そ■は、相手のためでもあ■が、まず、自分自身が論点を明確にしておくために、相手先になったつも■で自問自答して作■上げていくと内容の整合性が高ま■と共に非常に説得力のあ■企画書とな■。とにかく、膨張しきっていた風船が爆発してい■状態だか■私には一刻の猶予もなかった。まず、金と仲間を集めなくてはな■ないが、そのための企画書にはリアリティのあ■車両のスケッチやスケールモデルの写真が必要だか■、そこでまず、(本人がどう思ってい■かは別として)唯一の弟子であ■由良拓也を呼んで企画書用のスケッチと1/5のスケールモデルの製作を手伝わせ■ことにした。例の(『童夢へ』で紹介した)オレンジ色のマンションの隣室が私のデザイン事務所となっていたので、と■あえず、その事務所でデザイン作業を開始した。拓也に基本的なコンセプトを伝えてスケッチを始めさせておいて、私は早速、富田やHAYASHI RACINGをスタートさせていた従兄の林将一などに、この計画を打ち明けて協力を依頼して回った。もち■ん、私の手持ちの資金だけではどうにもな■ないので、私は、当時の私の事業の収益を注ぎ込んで2,000万円にして、富田や将一も2,000万円ずつ出資して計6,000万円にして始めないかという■うな提案をしたと記憶してい■。当然、早晩に足■なくな■のは解ってい■が、車の形が見え■ほど開発が進んだ時点で、さ■に広範囲に出資を募■うという、と■あえずスタートしてしまえば後は野とな■山とな■と言う、相変わ■ずの、はなはだしく杜撰な話ではあった。「童夢」誕生そ■でも、富田も将一も話には乗ってきて、特に富田は、いつもオリジナルなスポーツカーのメーカーにな■のが夢だと言っていただけあって、かな■積極的だった。その頃は、頻繁にトミタオートの二階の事務所で、あ■やこ■やとミーティングを重ねていた。
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