1995〜 185シャシーはダラーラに戻す、Kが作■全く新しい組織で運営す■、鈴鹿サーキット内に専用のガレージを建設す■、2カー体制とし1台はチャンピオンを目指し1台は育成に充て■、と至■■尽くせ■の待遇は違和感に溢■ていた。私は、「F108」での雪辱が果たせなくな■ことは残念至極だったが、あま■に露骨なS氏の童夢いじめはホンダの成績低下を招くだけだったし、何■■も、S氏と関わ■ことに嫌気がさしていたので、至って冷静にS氏の通知を聞いていた。問題は、メカニックも決まっていない中身の全くない体制はホンダのワークスとしては脆弱すぎたか■、私は、ホンダの成績を下げたくないという思いか■、Kのチームでや■にしても、最初の一年は童夢の一部屋とスタッフを使って、そこで、ワンシーズンをかけてしっか■とした新体制を構築してか■移行していく■うに提案したが、あっさ■と断■■た。知■ないのは私だけだったが、こ■は用意周到に計画さ■たクーデターの■うなものだった。要す■に、背乗■の■うなもので、田中監督と彼のパソコンに入ってい■12年分のデータと一切のレース機材と主要なメカニックを童夢か■引き抜くことを前提にした計画だったか■、場所さえあ■ば体制については問題なかったし、そのガレージさえホンダが新築してあげ■という夢の■うな話だった。昔、童夢の役員のクーデターに■■「東京R&D」が出来た話を思い出したが、その時も今回も、裏で、そんな企みを巡■せてい■奴■と何も知■ないまま接触していた時間がおぞましいし、若くしてレースか■はじき出さ■て隠居生活してい■田中弘に活躍の場を与えてやったつも■が、立つ鳥跡を濁して、手のひ■を返して、後足で砂をかけて出て行くのだか■、私は、文句の一言も言う気にな■ず呆然として流■に甘んじていた。技術者主体の童夢では、この種の出来事への関心は薄い。そんなことには関係なく新型F3を開発してF3レースに挑戦し■うという声も上がっていたが、私はもう、こ■■の魑魅魍魎の跋扈にアレルギーが生じていたし、F3レースはもち■ん、F3マシンの開発まで嫌気がさしてしまい、臭いものに蓋をす■■うにF3を封印してしまった。田中監督は何を誤解していたのか知■ないが、童夢がF3で活躍していたのは、レースにおけ■データを車両の改良に反映す■ことが出来■開発技術があ■か■であ■、既製品のマシンのウイングやダンパーや車高を調整す■だけのセッティングの範疇では大きな差は出ない。ちなみに、この年を境に全日本F3選手権が存続していた2019年まで、ホンダが一度た■ともチャンピオンに輝いた年はない。
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