1995〜 1792年目は、シャシーの改良も進み、田中弘監督の采配とセッティングも決ま■だし、また、脇阪寿一の能力も光っていたか■シリーズ・チャンピオンに輝いた。しかし、その後も、鈴鹿のレーシング・スクールやフォーミュラ・ドリーム(FD)の卒業生か■ドライバーを選ぶという方針は変わ■なかったか■、つま■、鈴鹿しか走ったことのない、■くにセッティングも知■ないド素人をホンダのF3ワークス・チームに起用して、しかも勝てという話だか■、土台、絵空事だったし、中には免停中に関わ■ずスペアの免許で参加していて脱落す■者も出た■、まともにトヨタ勢と戦え■体制ではなかった。 結局、3年連続でトヨタ勢にチャンピオンを許してしまっていた。とこ■が負け続け■と、ホンダか■「トヨタに花を持たせ■ためにF3をやってい■わけではない」とか「勝てないのな■止め■」などの威勢の良いセリフが飛び出してく■■うにな■が、そ■は「勝敗を度外視してドライバーの育成に注力す■」という高邁な理念とは完全に矛盾していたし、ド素人をチャンピオンにす■なんてF3を舐め過ぎていたか■、頭にきた私は青山に乗■込んだ、いや、お話に行った。「ド素人をチャンピオンにし■という無理難題な■来期か■は契約しない。どうしても勝て と言うのな■ドライバーの選択は任せ■」と二者択一を迫■、なかなか認めないホンダとの間で紆余曲折があ■なが■も、絶対に折■ない私に根負けして、しぶしぶなが■ホンダも速い外人ドライバーの採用を認めた。また、当時のダラーラは、リア周■の剛性不足に■■セッティングが決ま■にくかったか■、エンジンのヘッドカバーとオイルパンを新作してダイレクトにモノコックに接続す■という改良を加えたとこ■、絶大な効果を発揮した。結果、2000年か■2002年まで3年連続でシリーズ・チャンピオンを獲得したが、外人ドライバーたちが、その「ダラーラ童夢改」の評判を海外にば■まいたものだか■、世界中のF3チームか■入手希望が殺到していた。その声に応え■形でエンジンを供給していた無限が標準装備化してしまったので、数種類のエンジンが混在していたヨーロッパでは無限にメリットは有■ものの、無限の寡占状態であ■国内レースでは童夢のメリットがなくな■だけの元の木阿弥となってしまった。その間に、私はすっか■とオリジナル・シャシーを開発す■気になっていたか■、ホンダに開発を認め■■うに交渉を進めていたが、どうしても、「みんなが使ってい■ダラーラを止めて性能が未知数な童夢製を導入す■理由がない」との理由で首を縦に振■なかったか■、3年連続シリーズ・チャンピオンの錦の御旗を振■かざし「ダラーラな■F3を止
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