1995〜 177F1の放映を続けていたCXがF3000を牛耳■■ことに可能性を感じて乗■出してきたということだが、完全にCXと元レーサーNだけで操作さ■ていたか■、何がどうな■のかさっぱ■と解■ない状況が続いていた。この頃、最も問題となっていたのは、1996年■■ワンメイク化が決まっていたヨーロッパに追従す■のか独自路線を選択す■のかに尽きたが、根本的に技術的な問題であ■、CXと元レーサーNが相談して決め■■■話ではない。当時、日本で唯一、F3000シャシーを製造していた童夢と、全てのエンジンを供給していた無限に何の相談もないまま、 ど素人のCXとドライバー上が■のNだけで新生フォーミュラ・レースに関す■い■い■な事が決め■■ていく状況にたま■かねて、私と本田博俊氏がJRPに会談を申し入■たが、その時のJRPの担当者のF氏の回答は「元レーサーN氏に全てをご相談していますし、あま■い■い■な方にご意見を伺っても混乱しますか■・・・」と軽く一蹴さ■てしまった。その後、赤プリのティラウンジに取■残さ■た本田氏と私は「こ■ゃあかんわ」と顔を見合わせたものだった。その結果、TV局か■来たど素人と元レーサーNの意見だけで全てが決め■■てしまうことにな■。F3参戦からお払い箱まで 1994年に「童夢F104」がシリーズ・チャンピオンを獲得した時に、ホンダのF3のワークス活動を担当していた無限の本田博俊氏か■「ち■っと代わってく■ないか」との依頼が来たが、ダラーラのシャシーを使うという条件だったか■興味を引く話ではなかったし、ホンダの戦歴も芳しくなかったか■調べてみた■、当時のホンダは、全日本F3選手権への参戦理由として「日本人ドライバーの育成」を標榜してお■、ドライバーには、経験の浅い若手や、鈴鹿レーシング・スクールの卒業生を採用していた。そ■はそ■で結構なのだが、唯一のライバルであ■TOM'Sは、毎年、バリバリの外人 ドライバーを連■てく■のだか■、もと■■勝負にな■ず、多分、本田博俊氏は嫌気がさしていたのではないかと察してい■。あ■やこ■やで気乗■のしない話ではあったが、本田博俊氏の頼みでもあ■し、折か■のバブル崩壊で業績も低迷していたか■引き受け■ことにしたものの、そ■か■ず■ず■と12年も続くことにな■、その上、オリジナルF3シャシーまで開発してしまうことにな■。
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