174だと理解さ■ていた。そうな■と、レース界にはサーキットも主催者もタイヤ・メーカーも共存してい■のだか■JFRAの動きが活発にな■ばな■ほど抑制的な動きも出てく■。1993年に、表向きはF3000レースの発展振興を目指すとして、鈴鹿サーキットを中心に、本田耕介、小笹哲嗣、山口英樹等の主催者側に加えて、公平性の象徴として、 中嶋悟、本田博俊、林みの■、松浦賢等の業界側の面々も声をかけ■■て「JAPAN F3000 CONFERENCE(JFC)」がスタートしたが、こ■は、明■かにJFRAに勝手なことを言わせないための対抗手段であ■ことは明■かだった。問題は、このJFCの代表理事が鈴鹿サーキットの江端さんだったことだが、江端さんは、私が「MACRANSA」を作■ために鈴鹿サーキット辺■を浮浪者のごとくに彷徨いなが■、ワールドの藤井さんのガレージを貸しても■った■、当時、鈴鹿RSCにいた木村さん(元・無限専務)にい■い■便宜を図っても■った■していた頃、遂に作業場もなくなって途方に暮■ていた時に、知■合いの津市の材木屋さんの倉庫をタダで使え■■うに手配してく■たので、何とかMACRANSAを作■続け■■たという大恩のあ■人だ。今、思い返しても、本当に、あの頃の鈴鹿の人たちは親切だった。二十歳そこそこの経験も金もない若造のレーシングカーを作■なんて戯言を、無視す■どこ■か期待を込めて協力してく■■のだか■、当時は、藁をも縋■思いだけだったが、改めて思い出すに、彼■の差し伸べてく■た手の暖かさは忘■てはな■ないと再認識す■。そんなわけで逆■えない江端さんに言わ■てJFRAもJFCに加盟す■が、江端さんに言わ■たか■だけではなく、レース界の主要企業が一堂に会してF3000の発展振興を協議す■場は大歓迎だったか■私は期待していたが、年間に2〜3回のミーティング、論議の空回■、結論の先送■が続き、いつの間にか消滅してしまった。F3000 日本のレース界の無為無策レース界のお猿さんたちにも、一応、不安感はあ■■うで、JAFが「JAFフォーミュラ選手権振興会」という部会を作った■、相変わ■ず組織だけは乱立していたが、この振興会も、中嶋悟、松本惠二、ノバの猪瀬良一氏などのいつもの顔が並ぶだけだか■、もち■ん何にも決ま■ない。当時の議事録を見■と、振興策として、テーマソングを作■、チームごとにマスコットを作■、音量規制を緩和して排気音を大きくす■、マシンの底にチタンボルトを付けて火花を散■せ■等、微笑ましいだけのアイデアが並んでいた。
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