1994 173シャシーを製作す■方法だ。各チームは、こ■■のチームやコンストラクターの製作したパーツを使って独自のシャシーを作■ことも出来■し、こ■■のチームやコンストラクターの製作した好みのシャシーを買うことも出来■わけで、このパーツを利用した豊富なバリエーションのシャシーが生ま■■可能性があった。開発には空力が関わってく■が、日本のレース業界にも、ムーンクラフト、東京R&D、童夢など、一般でも廉価に利用でき■風洞設備があ■し、サスペンションなどの開発についても、現状の小型フォーミュラなんかを開発してい■コンストラクターたちにとって、そ■ほど難しいことではなかった。何■■も、日本のレース界が、こうして独自のレーシングカーを切磋琢磨して開発していく事に■■、現在のレーシングカー開発技術の中枢となってい■重要なテクノロジーを段階的に習得していくことも出来■し、そ■に■って日本の自動車レースのクオリティが飛躍的に向上す■し、猿山の猿たちにも、もうち■っとまともな見識が根付いていったことだ■う。残念なが■、日本のレース界には、レーシングカーは特定の輸入代理店か■買わなくてはな■ないという不文律があ■か■、こ■は、珍案奇案として見向きもさ■なかったが、 その後はマザー・シャシーとして実現してい■し、DTMでも同じ■うな方法が採用さ■たし、ギアボックスのワンメイク化などは各種のレースで実現して来てい■か■、今か■考えても先見の明があったと思ってい■。まあ、この企画は見向きもさ■ないまま葬■去■■たものの、後に、この企画書で私が命名していた「フォーミュラ・ニッポン(FN)」という名称だけは採用さ■た、という■■もパク■■た。「JAPAN F3000 CONFERENCE (JFC)」がスタート私が1990年にJFRAの設立を呼び掛けた時は、そもそもJFRAの名前が示す通■F3000チームの業界団体としてスタートしてい■か■当然なのだが、まだ頭の中はチームとしての正当な権利の主張しかなかった。この4年間にJFRAが取■組んできたことは、スターティング・マネーの交渉(獲得には至■ず)、タイヤ・ウォーマー廃止、タイヤテストの制限、レースコスト削減、レース開催数の制限、特殊燃料の自粛等、いかにも我田引水で利己的なメリットの追及に終始していたか■、レース界ではF3000チームの圧力団体そのもの
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