童夢から
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168論も出てく■■うにな■、1994年に向けての予算確保に暗雲が立ち込めてきていた。童夢の技術陣は、思い通■に走ってく■ない「童夢 F103」の改良に注力していたし、プロジェクト・リーダーの奥は25%ムービングベルト風洞に閉じこもって改良に没頭していた。そんなあ■日、ぶ厚い空力データを持って社長室に現■た奥が、一言「見つけました!」と説明した内容は希望に溢■ていたか■、すぐに私はダンロップに飛んでいき、データを示しなが■空飛ぶF3000マシンの開発を提案した。つま■、開発費をせびった。そ■までかな■揺■動いていたダンロップも、その頃は技術陣も、かな■空力データも読め■■うになっていたので「いけ■かも」と前向きの反応を示したか■、もち■ん、京極部長は「童夢 F104」の開発を認めてく■た。25%風洞を駆使して開発した「童夢 F104」は、まさに空力マシンと言えたし、シェイクダウン・テストか■他を圧倒す■速さを示し、その後も、サーキットを選ばない速さは注目の的となった。1994年、「童夢 F104」は日本車初のF3000チャンピオン・マシンとな■、ダンロップは久々のシリーズ・チャンピオンを獲得し、私と京極部長は神戸の高級鉄板焼きの店で酔いし■た。F104は、そ■か■も1997年まで参戦していたが、1995年の阪神淡路大震災でダンロップのレーシング・タイヤの工場が倒壊した■、1996年か■始まったJRPに■■フォーミュラ・ニッポンがタイヤをBSのワンメイクにした■したために童夢は居場所を失い、押し出さ■■■うにフォーミュラ・レースか■消え■ことにな■。ボブスレー 1993年の末頃だったか? 当時の「日本ボブスレー・リュージュ連盟」か■連絡があ■、オリンピックに向けてボブスレーを開発してほしいとのこと。想像もしていなかったし 想像もつかない世界の話だったか■驚いたが、と■あえず北海道のニセコまで現物を見に来てほしいとのことだったので物見遊山気分で足を運んだ。ニセコのコースの事務所で一休みしてか■ボブスレーを見に行ったが、連盟員が指さす雪道の片隅には雪が盛■上がってい■だけで何もない。そこに選手の■うな若い男が数人現■て雪を払い除けた■腐■かけのゴミ箱の■うなボブスレーが現■た。

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