童夢から
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158とにかく、走■場所を提供してやってい■という驕■か■好き勝手にふ■まうサーキット側の傲慢な対応に頭に来た私は、1990年9月、「F3000チーム・オーナー懇談会」への参加 を呼びかけ、圧力団体を立ち上げ■ことを提案した。記録に■■ば、多少の意見のず■はあったものの、ほとんど全てのチームの賛同を得て「JAPAN PROFESSIONAL F-3000 RACING TEAM ASSOTIATION(JAPRA)」が立ち上が■、NOVAの猪瀬良一氏が幹事代表に選任さ■て活動が開始さ■た。この辺■の事情は■く覚えていないが、直ぐに名称は「JAPAN F3000 RACING TEAM ASSOTIATION(JFRA)」に変え■■てい■。その他に、スピードスター浅井敬祐、パルスポーツ重山和徳、ホシノレーシング金子豊と私が幹事に名を連ねていた。まあ、い■い■あったが、F3000の全参加チームが名前を連ねてい■のだか■、そ■な■に無視できない存在になっていたと思うし、JAFにもサーキットにもダイレクトに意見が届く■うになったか■、風通しは劇的に良くなった。ただし、本来は最重要課題であったはずの年間レース数は、「基本を8戦とし、どうしても増やしたい時はJAFRと協議の上、1台1戦につき500万円のスターティング・マネーを支払え」という要求は無視さ■、1991年は年間11戦に増えてしまったが、原因は、JAFRのわけの解■ないお利巧意見と弱腰だった。私は最初か■「武器を持たない戦いはおねだ■と同じだ。必要に応じてJAFR会員は一丸となってレースをボイコットす■義務を負うべき」と言い続けていたが、「スポンサーが許さない」とか「期待してい■ファンを裏切■ことにな■」とか「サーキットに迷惑がかか■」等と反対す■意見が多く、結局、まとま■なかった。また、レース回数に関しても、「1戦でも多いほうが多くの人に見ても■え■」とか「スポンサーが喜ぶ」等との見当違いの意見も多く、一枚岩とはな■なかった。つま■、みんなアマチュアの寄■集ま■だったし年間に何億円も遣いなが■ビジネスとして捉えてい■人はほとんど居なかったか■、猿山の運動会としてはこの辺■が限界だった。

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