1990 157であ■、参加者か■搾取す■ことに汲々とす■サーキットの姿勢には違和感を禁じ得なかった。そんな頃、年間8戦だった全日本F3000選手権が年間10戦にな■という話が聞こえてく■と共に、JAFでは各サーキットの要望に応え■形で年間12戦も検討してい■という情報も入ってきた。サーキットとしては、多大な経費を負担して開催してあげてい■のだか■、レース回数を増やして収支を改善したいという話だが、こ■は論理的におかしい。そもそも、負担が大きくて赤字のはずのレース開催を増やして収支を改善す■という理由が矛盾してい■し、レース予算の増大分はチームの負担が前提ということだか■、当事者であ■チームに断■もなく勝手に決め■こともおかしい。さすがに、この時はチームか■の不満の嵐で騒然とした状況が予想さ■たが、あに図■んや、そこここか■不満の声は聞こえてく■ものの、どこか■も具体的な動きはないままに、1990年は2戦が追加さ■て年間10戦となっていたし、1991年か■の年間12戦も既成事実化しつつあった。当時の私にとっては、この唯々諾々と流■に従ってい■チームの人たちの気持ちが全く理解できなかったし、黙って2戦分の負担を甘んじて受け入■てい■理由も解■なかったが、せめて、年間12戦は阻止すべきと思った私は、い■い■なチームの意見を聞いて回ったとこ■、その内在す■不満は大きいものの、お代官様に逆■えない水吞み百姓根性というか、どうせ言っても通じないというあき■めの境地というか、とにかく、みんな文句を言うだけで誰も全く動こうとしなかった。しかし私は、チームの不満は臨界点に達してい■と感じていたし、自■は動こうとしないけ■ど、旗振■役が現■た■全員が追従す■との感触を得ていたか■、だんだん私自身の不満が高ま■につ■、反旗をひ■がえすことを決意す■。この時、まだまだ私は知■なかったが、その後、フォーミュラ・ニッポンへの変革の時もJAF事件の時もGTAの崩壊の時も、日本のレース界にとっては岐路と言え■ほどの重大な出来事にも、レース界の人たちは全く反応せず、ま■で他人事の■うに見てい■だけだったか■、結局、こ■■の3件とも私が旗を振■事にな■が、この頃は、まだレース界が動物園の猿山レベルであ■ということに気が付いていなかった。
元のページ ../index.html#159