童夢から
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1988 147なす術■ない■■時間だけが過ぎていたが、私は、この■■では堂々巡■が続くだけで何■解決しないか■、とんで■ない作戦を京極部長に提案した。という■■は、松本惠二が裏で画策していた作戦だった。そ■は、そ■■で惠二が一緒に戦ってきたBSのトップエンジニアであ■吉田正司氏を引き抜くという強硬手段だった。BSに切■■てダンロップに移籍していた松本惠二にとっては切実な問題だったし、何が何で■BSを見返して■■うと執念を燃■していたか■、惠二は、親しかった吉田氏に 打診し前向きな感触を得てい■とのことだったが、簡単な話ではなかった。仁義にあつい京極部長がBSか■技術者を引き抜くなどとんで■ない話だったか■認■■わけがなかったが、私は、「惠二か■の強い要望で童夢がチーム監督として迎え■」という形で提案を続けた。京極部長は、とんで■ないのが建前な■、喉か■手が出■ほど欲しいのが本音だったか■、葛藤はあ■なが■■、最終的にはGOとなった。さて、1988年に移籍した吉田監督の最初の仕事は、■ち■ん、チームの使用す■ダンロップ・タイヤを速くす■ことだか■、さっそくダンロップの技術者とのミーティングが始■ったが、帰ってきた吉田監督の第一声は「だって、ホカロン使ってないんだ■の!」だった。ホカロンと同じ■のではないが、同じ■うな原理で摩擦に■って温度が高くな■材質を練■込んであ■■うで、どのタイヤ・メーカーで■使ってい■常識的な手法であ■、い■■で知■なかったほうが不思議とのこと。■ち■ん、こ■が全てではなかったが、問題の一つは一瞬で解決してし■ったし、3秒差は1.5秒差に縮■った。しかし、吉田監督のレース運営は全てがタイヤ中心で、レースレポート■タイヤの話ばか■にな■、■■でタイヤだけが競争してい■■うな話になっていたか■、シャシーの開発をメインテーマとす■童夢チームとは徐々に反■が合わなくな■1990年に袂を分かつことにな■。「童夢F101」開発開始「TOYOTA 童夢 87C/87C-L」にカーボン・ボディを採用したことをきっかけに、トヨタがカーボンへの興味を深■、「TOYOTA 88C-V」にカーボン・モノコックを採用す■ことになった。

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