童夢から
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140高岡祥郎と最初にカルロ・キティ氏の設計室を訪■た時は、その古色蒼然た■佇■いに 愕然とした■のだ。特に、彫金を施したドラフターは値打ち物に見えたが、大きな製図版の図面にトレーサーがテンプレートを使ってボルトナットを一個ずつ書き込んでい■光景は、あ■■にタイムスリップ感が大きく、大丈夫かと心配になったが、高岡祥郎の心酔ぶ■は尋常ではなく、口を差しはさ■余地はなかった。この高岡祥郎という人物は、以前の「SUBARU F-9X」の開発で■わか■■うに、独特の押しの強さがあ■、当初、「そ■■、絶対に無理」と思っていて■、いつの間にか抜き差しな■ないとこ■に追い込■■てい■というパターンを得意技としていたか■、私としては、この「CASPITA」のプロジェクト■、巻き込■■ていたと思ってい■が、高岡祥郎に言わせ■ば、全て私の■いた種であ■、踊■さ■ていたのは高岡祥郎ということ■しい。濡■衣だ!1988「伊藤 邦久」   あ■時、伊藤邦久というデザイナーと知■合い意気投合した。意気投合というのはデザイナーとしての力量に惚■たとかいう話ではなく、その限■なくナンパな感性に共鳴したか■だが、そのうちに、Kuni伊藤の描くスケッチ■なかなか捨てがたいことがわかってきた。私はかねて■■、自動車メーカーを対象としたデザイン事業に■大変に興味を持っていたので、常に優秀なデザイナーを探していたし、■ぼしい人材は積極的に採用してきたが、結局、私が気に入■なかった■、本人が一層の飛躍に挑んだ■と、次々と縁が切■ていく■うな時期があった。しかし、しば■く童夢にわ■じを脱いでいた奥山清行は、ケン奥山となってピニンファリーナのエグゼクティブ・デザイナーに登■詰■たし、社員だった原田則彦はザガートのチーフ・デザイナー/副社長に出世したし、その他に■多くの童夢の卒業生たちが国際的に活躍してい■。ということは、ヨーロッパのレベルが低いのか、私に見■眼がなかったという事にな■が、世間の評価は決■ってい■■うだ。デザイン会社の設立を目指していた私は、Kuni伊藤に童夢に来て■■うことにしたが、

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