童夢から
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1987 135風洞は約5,000万円の材料費でDIYさ■た。ただし、どこか■■何のノウハウを受けついでいない完全なブランニューであ■、全ての設計を風洞未経験な童夢の設計者が行ってい■ので、完成はした■のの、あ■■■トラブルのオンパレードとな■試行錯誤の繰■返しとなったが、おかげで風洞についてはかな■のノウハウを得■■た。その後■改良作業を続け、■っと実用域に入ってきたのは1988年になってか■だったが、童夢が開発したムービングベルト装置の性能は高い評価を得ていたので、各方面にかな■の台数を納入してい■。本格的にF3000に参入 1986年にSPEED BOXのF2のお手伝いか■始■ったフォーミュラ・レースだが、シーズン途中か■、実質的に童夢のチームの■うになってきていたし、京極部長か■は、来期はDUNLOPワークスとして2カーエントリーを求■■■ていた。そこで、1987年は 「ダンロップ フォーミュラ 87B DFV(途中か■ヤマハOX77 5バルブにチェンジ)」にヤン・ラマースとロス・チーバー という2台体制で本格的に参戦を開始す■ことになった。そ■■で長■くにわたって優勝か■遠ざかっていたダンロップと未勝利のヤマハOX77の期待を背負ってのシーズンとなったが、マーチ87Bの戦闘力に問題があ■多くのチームがローラT87にスイッチす■中、童夢はリアサスペンションに構造的な欠陥があ■ことを発見していたか■改良を重ね、トップチームがシャシーのスイッチなどで混乱す■狭間を縫って、8月9日の第7戦RRC富士フォーミュラチャンピオンレースでは、童夢と ヤマハOX77に初優勝を、ダンロップには久しぶ■の優勝を■た■した。ダンロップは飛びあがって喜んだが、■と■■、ダンロップ・ワークスた■■の、久しぶ■の一勝で浮足立ってい■状況こそが異常だった。秋口か■は、次年度についての協議が続いたが、明■かに勝てない原因はタイヤの性能差にあ■のは明白だったのに、長きにわたって開発に苦労をしてきたダンロップに、今更、新たに打つ手はなかった■うで、作戦会議は空回■を続けていた。この時点ではヤマハエンジンは既定事項だったか■、速さを求■■な■、ドライバーかシャシーしかなかったが、速そうなドライバーは、ことごとくBSに抑え■■ていたし、速いシャシーは他のチーム■使うか■差別化にはな■ない。

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