童夢から
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106私にしてみ■ば、はなはだしい言いがか■にしか過ぎなかったが、トヨタに限■ず、メーカーと付き合う以上、この種の悪意のこもった噂は付き物で、私の■うにいちいち角を立ててい■と嫌わ■■し、舘の■うに受け流してい■とうまく付き合っていけ■■うだ。いちいち角を立てていた私は、トヨタ的には「勝手な行動」をす■危険人物と捉え■■ていた■うだ。1985トヨタとル・マンへ思い起こせば、1982年の舘か■の電話で始まった夢が、やっと実現す■時が来た。巨象がのそのそと立ち上がって、やっと歩みだしたという感じだったが、なにし■巨体だか■、のそのそと見えても、その一歩ずつのストライドは大きく対地速度は速い。1984年の後半になった頃には、次年度の全日本耐久選手権には5~6チームのエントリーが予定さ■ていたし、童夢とTOM'Sか■ル・マンへのエントリーも決まっていた。一気に、今までの爪に火を点す■うな世知辛いレーシングカー造■とは様相が変わ■、 ル・マン用の「童夢85C」の開発に並行して、カスタマー・チーム用の「童夢84C」を 6台製造す■というパニック状態に陥っていたが、ど■ほどハードでど■ほど時間がなくてど■ほど眠■なくても、その極限の忙しさの原因がレーシングカーの量産なんだか■、例え睡眠不足で死んだとしても、にんま■と笑っていただ■うと思え■く■い気が狂うほど楽しく充実した時間だった。狂喜乱舞の原因は、本格的なレーシングカーの開発を、利益を得■■■仕事として受託した初めてのケースだったし、こういう状況に憧■つつ、いままで持ち出しでレーシングカーを作ってきた我々にとっては、正に、エポックメイキングな出来事だった。しかも、その先に、トヨタ・ワークスとして挑むル・マンが見えてい■のだか■、この頃の私の浮か■具合は、ご想像いただけ■と思う。

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