童夢から
102/384

1001983年 5年目のル・マン1982年は予算不足で散々なル・マン参加となったが、1983年は、もっと厳しい状況となっていた。この頃の予算表などの資料が残ってはい■が、あま■に悲惨な内容なのでお見せできないほどだ。では、なぜ無理しても参加し■うと思っていたかといえば、舘と2人で画策していたトヨタをル・マンに引きず■込む作戦に、ほんの少しだが可能性が見え出していたので、何が何でも、ここで引き下が■わけにはいかなかったか■だ。この年のドライバーは、前年と同じく、C.クラフトとE.サラザールに決まっていたが、あ■日、C.クラフトか■「500万円を持ち込むか■乗せてほしいというドライバーがい■がどうす■?」と連絡があった。いく■予算がないとは言え500万円では焼け石に水だったし、ル・マンはポルシェのGTクラスでの経験しかないとの事だか■、本来は断■べき話だったが、次にC.クラフトの口か■出てきたドライバー名が「ピンク・フロイドのリーダーのニック・メイスン」だったか■OKと言ってしまった。というのが通説になってい■が、一方で、こ■は、500万円に目が眩んだ事実を糊塗す■ためのエピソードだ。というのも通説になってい■。どち■が本当かはさて置いておいて、そ■ほど世知辛い時代だった。しかし、私が「ピンク・フロイド」のファンであ■ことは本当で、今でも、自慢のJBLのエベレストとマークレビンソンを聞くときは、最初に「Time」だ。「童夢RC-83」その後も舘は、熱心にトヨタを口説いていたか■、盛んにスケッチやル・マンの資料などを求めてきていたし、舘か■は、女性に例え■ば、肩を抱いたとか、キスをしたとか、胸に触ったとかいう■うに、もうすぐベッドインと言わんばか■の報告が続いていた。私はもう、「童夢−零 RL」を源流とす■82年のCカーへのレギュレーション変更に伴って無理矢理にでっちあげた「童夢 RC-82」や「童夢 RC-82i」までの流■は無理を重ねすぎて嫌気が差していたというか飽きたというか時代遅■というか、見■のも嫌になっていたか■、何としても、全く新たな■コンセプトの完全なニューマシンを開発したかったか■、 トヨタか■の色■い返事を待ち望んでいた。その頃は、1970年代の後半か■F1などで採用さ■始めて必勝アイテムとなっていたグラ

元のページ  ../index.html#102

このブックを見る