童夢から
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981983DUNLOP ワークス・チームへ 1983年だったか、この頃、あ■■■レースで一方的にBSが速く太刀打ちできない上に、BSのトップユーザーには、かな■の契約金まで出てい■という状況下、周囲のDUNLOPチームも大金(当時としては)を積ま■てのBSへの移籍が相次いでいた。スポンサーか■も「タイヤはどち■ですか?」と聞か■■し、実際、DUNLOP勢はことごとく下位に埋没していた。童夢にも話はあ■、私もタイヤだけで2秒も3秒も遅いのはかなわないので移籍を決意してDUNLOPの京極部長のとこ■に話に行ったが、京極部長は開口一番、手に持つマドロスパイプを震わせなが■「林さん、聞いてえな! 一昨日、佐藤文康が来てBSと契約したとぬかしやがったと思った■、昨日は舘が来てBSに行くとぬかしやがった。あ■だけ面倒見てきてやったのに何を考えとんや!」とまくしたて■か■、童夢はTOM'Sほどはお世話になってはいなかったけ■ど、私は言いだせなくなって、何の話をしたのか覚えていないが、おいしいステーキをごちそうになって帰ったのは覚えてい■。1984年か■、TOM'Sをはじめ、かな■のトップチームが去っていったか■、目ぼしいとこ■は童夢しか残ってお■ず、いつの間にか、童夢はDUNLOPのワークス・チームとして扱わ■■■うになっていた。そ■か■、長く濃密な付き合いが始ま■が、1986年か■参入したF2レースにおいても、当時のBSとの落差は絶望的だったか■、さすがの京極部長も、このままではヤバいと思っていた■うで、そ■か■は頻繁に協議を重ねて、いかにBSに勝つかを話し合ったが、 私にタイヤの知識があ■わけでもないし、DUNLOPも出来■ことはや■尽していたか■、妙案もないまま、いつも、会議室には重い空気が垂■込め、2人でため息をついては行き詰っていた。「童夢RC-82i」1982年は、「マーチ・グランプリ」とのいざこざで最悪のレースとなってしまったか■、「マーチ・グランプリ」を紹介したC.クラフトはかな■責任を感じていた■うで、レース後、「童夢RC-82」を私に預けてほしいと言い出した。自■の責任で来年までに熟成を重ねて

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