ブラジャーVSレーシングカー 2
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21第2部 「童夢と林みのるの最後の夢」(山口正己特別寄稿)展振興に尽力し、且つ、自腹を割いて、JAF-F4やFIA-F4やマザー・シャシー等の日本の自動車レースの底辺を支えるカテゴリーのレーシングカーを開発供給してきたから、本気だった。しかし、安定した村社会の中で改革を叫ぶと、村人たちは夢や希望を持つよりも、自分の立場が危うくなるとか、その裏に、何らかの我田引水な策略があるのではいかと疑い、理解しようとする前に批判的になってしまいがちだから、私のレース界の仲間の中にも、林氏の主張を 「また自分だけ儲けようと思っている」とか「そんなの無理に決まってる」という発想で受け入れようとしない人のほうが多かった。結局、レース界の人たちの頑迷固陋な頭を解きほぐすことはかなわずに、林氏の願いも空しく日本のレース界は何も変わろうとしなかったから、失意のうちに引退を決意したのだろうし、その無念さが、これから説明する気宇壮大なプロジェクトの原動力となり、そして事件へと繋がっていく。第3章 難しくなるナンバー取得林氏の今回の突飛な行動を読み解くための、もう一つのキーワードが「ナンバー取得」だ。これは、日本だけの問題ではなく、現在、世界中で少量生産の自動車のナンバー取得が難しくなっており、イタリアの名門カロッツェリアでさえ公道を走れる車の製造が困難になっている。林氏は、1978年に「童夢-零」を開発した時に、国内でのナンバー取得に挑んで運輸省と掛け合ったが、門前払いとたらいまわしの連続で断念しアメリカでのナンバー取得に切り替えた経緯がある。1989年にスーパー・スポーツカー「CASPITA」を開発した時も、やはり国内ではナンバー取得が困難だったことから英国でナンバーを取得している。第4章 マレーシアでの出来事実は、林氏は20年くらい前に、マレーシアで「TVR」のライセンス生産をしているメーカーから新型車の開発依頼を受けて相談にのっていたことがあり、共同開発に興味を持ち始めた頃に、この会社が倒産してしまって、この話は立ち消えになっていたが、その時に、そのメーカーが簡単な書類審査だけで型式認定の許可を得られる権利を持っていることを知り、それが頭に残っていた。その後、マレーシアでのGTレースに童夢が参戦した時に、マレーシアの少量生産自動車メーカーの社長を紹介された。用件は、またもや20年前と同様に新型車の開発依頼

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