14を開発できる企業は存在していなかった。多くのメーカーが海外のコンストラクターに依存して日本のコンストラクターを育てなかったことから、日本ではレーシングカー・コンストラクターという事業形態が成立せず、他のライバルたちが撤退せざるをえない結果だった。レーシングカー・コンストラクターを維持させるだけでも難しい日本の自動車レース業界の中で、目覚ましい成長を実現していた「童夢」は、ある時期から“童夢の奇跡”と呼ばれるようになった。その、創業から現在までのサクセス・ストーリーも、ここでは語りつくせないので、自動車業界を良く知らない人にも興味を持っていただけるような話題を探してみた。一言でいえば林は、自動車レース業界では浮いた存在だった。自動車レースは、見た目ほど儲かる世界ではなかったから質実な人が多い中、京都の花街で浮名を流したり、銀座の有名クラブで顔だったり、現在、結婚が4回目だったり、とにかく、自動車レース界はいうに及ばず、一般人の規格からも外れていた。事業面でも、頼みごとや頭を下げるのが大嫌いだったから、童夢には営業部門が存在しなかったし、頼まれた仕事しか引き受けないというスタイルを貫き通していたのだ。なぜ、そんなことが可能だったのかと言えば、林には、独特の先見の明というか嗅覚があったからだ。1980年代に、いち早くカーボン・ファイバーに着目、大手繊維メーカーと組んでレーシングカーの車体への製品化を推進した。1987年には自動車メーカーでさえ所有するところが少なかった25%ムービングベルト風洞実験設備を独自に建設。2000年には、さらに進化させて東洋唯一の50%ムービングベルト風洞実験設備を独自に建設した。何から何まで、日本の自動車メーカーの一歩先を行く先進技術を導入し、後追いの自動車メーカーをクライアントとして成長拡大を続けてきたのだ。私は「林みのる」とは付き合いが長いものの、とても同じ視点でものを見ているとは思えないので解った風なことを言う気はないが、これらの猪突猛進のような生き様に計算があるとは思えない。ひたすら大好きなレーシングカーを作るためにはどうすれば良いかだけを考え抜いてきた結果が、ぶれない一直線の生き様となってまっすぐにゴールに向かわせたように見える。また、林みのるの忘れてはならない特徴は、絶えず日本の自動車レース界を俯瞰して観察
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