ブラジャーVSレーシングカー 2
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13第1部 「林みのる」の引退と事件の発端まで(山口正己特別寄稿)いのか戸惑うが、私の認識している「林みのる」という人は、だいたい、こんな人物だ。まず、幼少期の実家に運転手やお手伝いさんが居たという。第二次世界大戦直後のことである。ここからして私のようなただの庶民ではない。さらに、ご幼少の頃から“只者ではない存在”だったことは、幼稚園に入園した日に早くも証明された。自分の言うことを聞かないどころか命令ばかりする先生に腹を立て、とてつもない事件を起こしたのだ。支柱が腐って倒れかけていた幼稚園の塀を支えていた突っかい棒を外して回って倒してしまい即時退園になった伝説があるらしい。本人は覚えていないようだが、生前のご母堂が、ことあるごとに愚痴をこぼしていたようだから本当だろう。それはさておき、物作り大好き少年だった林みのるは、模型やラジコンやオーディオやバイクを経て、19歳の時に最初のレーシングカーを作って1965年の鈴鹿のレースで優勝したのを契機に、レーシングカー・コンストラクターの道を歩み始め、30歳で「童夢」を創業(1975年)した。童の夢(わらべのゆめ)、なんとも林らしいネーミングだ。1965年といえば、家に車があることが裕福な証の時代だった。そういう時代に新車を潰してレーシングカーを作るなど、庶民にとっては夢のまた夢、非現実的な妄想だった。さらに、画家であった父や厳格な母の猛反対を受けていたから、親からは一切の支援がない中でのことである。そんな状況で、情熱と根性とエネルギーだけでホンダS600を改造して、真っ黒に塗装されたことから“カラス”と呼ばれる最初の作品を作ってしまったが、この経緯を詳細に語るにはページが足りない。興味ある方は、林の青春を振り返る『童夢へ(林みのる著)』をお読みいただきたい。ともあれ、激動の青春期を乗り越えて30歳を迎えた1975年、林はレーシングカー・コンストラクターの「童夢」を創業した。その最初の作品であるスーパーカー「童夢-零」をジュネーブ国際自動車ショーで発表し、いちやく世界的に脚光を浴びることになった。一世を風靡した「童夢-零」のラジコンを覚えている団塊の世代のおじさんも多いだろう。林はそれだけでは飽き足らず、世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースに挑戦を開始、以後通算18回の参戦を果たし、1985年からは、ル・マンに挑戦するTOYOTAのワークス・レーシングカーの開発とレース活動を担当、1997年からは、HONDAのワークス・レーシングカーの開発とレース活動を担当するなど、日本で唯一の本格的なレーシングカー・コンストラクターとして活躍してきた。ざっと振り返ると簡単な話のようだが、日本には「童夢」以外に本格的なレーシングカー

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