COLUMN / ESSAY / LETTER

Sep.06 2012「日本の自動車レースへの遺言状」

はじめに
私が初めて手掛けたレーシングカーが鈴鹿で優勝してから、もう47年(2012年現在)が過ぎました。
当時は、世間とは隔絶した自分だけの世界に閉じこもってレーシングカー造りにだけ没頭していた私も、1993年あたりから1996年のフォーミュラ・ニッポン(FN)誕生に至るまでの紆余曲折を体験し、その舞台裏を知るにつけ、やっと、長らく疑問だった、なぜ、いつまで経ってもレーシングカー・コンストラクターという業種がこの国では全く陽の目をみないのか、その理由が少し見えてきました。
少年のころからレーシングカーを造ることしか頭になかった私の夢は、当然、レーシングカー・コンストラクターとして大成し、LOTUSやMACLARENなどの列強を蹴散らかすことでしたが、借金まみれでMACRANSAを造り続けても、当時の夢だった日本グランプリに出場を果たしても、どこからもレーシングカー開発の依頼なんて来なかったし、その上、そうして自らのスキルが向上すればするほど必要な予算は青天井に肥大し、どう考えてもこのままでは犯罪者になってしまうというところまで追いつめられて、20歳代も半ばになったころ、やっとレーシングカー・コンストラクターを諦めることを決意しました。
もっとも、決意なんて潔い話ではなく、レーシングカーを造るたびに、当時、24~5歳の若造の私が、何の見返りも期待できないのに、現在の貨幣価値に換算すると数千万円単位の大金をぶち込まなくてはならない訳ですから、成す術が無かったというのが事実ですが。
だから、しばらくは放蕩三昧な生活を続けていましたが、どうしても車造りを諦めきれなかったものの、レーシングカーが無理なのは百も承知していたので、それならばスポーツカーだ!という、ほぼ牽強付会というか詭弁のような納得で「童夢」を設立して「童夢-零」というスポーツカーを製作したところ、やっと世間の耳目を集めることが出来て、その商品化権による予期せぬ収入が転がり込んだ次第です。
普通は、その資金を童夢という会社の発展に投資したり私腹を肥やしたりすべきなんでしょうが、私としては、こんなチャンスに憧れのルマンに挑戦しなくていつできるんだと、躊躇なくルマン・カーの開発を開始しましたし、その頃の仲間たちの誰一人として反対する者はいませんでした。
だから、通常なら、このルマンから帰った時点で潰れていてもおかしくない会社でした。

童夢としての最初の作品「童夢-零」(1978)

最初のルマン・カー「童夢-零RL」(1979)




究極の夢であったルマンへの挑戦が実現した後も、レーシングカー・コンストラクターとしての状況に特に変化はありませんでしたが、TBSが一時間の特番を組んでくれたり、東芝EMIが記念レコードを発売してくれたり、今まで、倉庫を借りてインスタント・ラーメンをすすりながらレーシングカーを造っていた時代と比べれば、そこには明らかに違う世界への入り口が見えたように思えたので、もう私は、レーシングカーに手を染めれば地獄しかないという戒めをすっかりと忘れて、再び、禁断のレーシングカー造りにのめり込んでいきました。
しかしその頃は、「童夢-零」の実績やルマンへの挑戦やおもちゃのブームによる知名度の向上などが、ささやかながら社会との接点も生まれつつありましたから、今までの閉塞感の殻が破れたような新鮮な高揚感もありましたし、実際、いろいろな仕事の打診が舞い込んできていて、相変わらず、お金の苦労は続いていたものの、期待感だけは満ち溢れていた時代でした。
その後は、TOYOTAのグループCカーやHONDAのGTなどのコンストラクター/レーシング・チーム的な仕事に出会ったり、50%風洞を建設したり、カーボン・コンポジットの事業を開始したりと、未だに、レーシングカー・コンストラクター専業という訳にはいきませんが、レース部門と実業部分の両輪をうまく使い分けながらシナジー効果を得られるような絶妙なバランスで、何とか、最小限のコンストラクターとしての活動を維持してきました。

京都宝ヶ池に建設した最初の本社屋(1979)


しかし、もう20年近くも前になりましょうか? それまで、さまざまに活躍していたレーシングカー・コンストラクターが、一つ減り二つ減って、ついに、本格的なレーシングカーを開発できるコンストラクターが童夢だけになってしまったあたりから、なんとなくの逆風を感じるような出来事が多くなってきました。
私としては、他のコンペティターが次々と消えていく中、これからの日本の自動車レースを支えるのは童夢だ!くらいの心意気で張り切っていましたし、当時、よく言われた外国との技術格差についても真摯に受け止めていましたから、これからの努力で追いつけ追い越せだと前向きの姿勢で努力を続けていたものです。
そんな、なんとなくの逆風に首をかしげながらも、自動車レースが盛んな国にレーシングカー・コンストラクターが必要なのは当たり前と言う思い込みから、いずれにしても実力を認められることが先決と、ますますレーシングカー開発にのめりこみ、TOYOTAグループCカーでのWECやルマンへの挑戦や独自のF3000マシンでのシリーズ・チャンピオン獲得など、着々と実力を伸ばしていった頃、それに比例してますます風当りが強くなってくるような不思議な感覚に戸惑いが強くなってきていました。


幼稚な日本のレース界の象徴-FNその罪深い不見識の果て 
そんな頃、バブル崩壊でお先真っ暗な日本のレース界に追い打ちをかけるように、日本のF3000の母体となっていたヨーロッパのF3000のワンメイク化が決まり、日本も追従するのか独自路線を歩むのかを決めざるを得ない時が来ていました。
決意すべき時間が迫る中、長い間、誰も何の結論も出さない無為な時間だけが過ぎていましたから、私は様々な関係者に、モノコックやギアボックスなど個人で開発するのが難しい部品だけをワンメイク供給して、その他の部分を国内のコンストラクターが製作して完成車として販売する「フォーミュラ・ニッポン」というシステムを提案しましたが、全く取り合ってもらえなかった割には、ちゃっかりと「フォーミュラ・ニッポン(FN)」という名称だけは採用され、私一人が反対する中、ド素人の門外漢に全権委任するという愚かしい決定が成され、フジTVを主体とするJapan Racing Promotion(JRP)が創立されました。

「F3000を考える会(1994/3/31)」で提案した国産化案


そのJRPに係わる関係諸氏の、特にハードウェアに関する施策は無知蒙昧支離滅裂で見るに堪えなかったので、たまりかねた私と本田博敏氏の二人で、当時、FNを主導してい
たフジTVの担当者に「せめて車体とエンジンに関しては無限と童夢の意見を聞くべきだ」
と申し入れたところ「本件に関しては中心的に相談させていただいている方(元レーサーN氏)が決められることなので、混乱を避けるために他の意見は伺わないようにしています」と一蹴されました。
赤プリのティラウンジで本田氏を含めた3人でのミーティングは一瞬で終わり、フジTVの担当者が立ち去った後、二人は「こりゃ、ダメだ」と肩を落としたものです。
(「F3000を考える会(1994/3/31)」を参照してください。)

この時、このオリジナルな「フォーミュラ・ニッポン」のアイデアが採用されていたら、少なくとも数社のレーシングカー・コンストラクターが出現していたでしょうし、それらは、この16年に亘るFNの戦いの中で切磋琢磨されて、ダラーラの牙城を脅かす存在に成長していたでしょう。また、HONDAやTOYOTAがF1に挑戦するにしても、外国の技術に丸投げするというようなバカげた発想には至らなかったはずです。

思い起こせば、その頃からすでに、日本の技術や産業に全く目もくれない日本のレース界(=自動車メーカー)の体質が露呈しつつある時期だったと思うのですが、私もまだまだ単純に、「自動車レースのある国にレーシングカー・コンストラクターは必要」という原理主義の信奉者でしたから、よけいに、素人集団のJRPの不見識が全ての元凶と思い込んでいましたし、何で、プロであるレース界の人達が、この素人集団に盲目的に着いていくのか理解できませんでした。

しかしその後も、何のビジョンも持たないFNはドライバーの腕比べに専心したまま低迷を続けていましたし、ずっと自動車メーカーからの生活保護無くしては生きていけない、と言うより、保護を前提として運営されてきました。
また、観客動員もままならず、つまり、一般のレースファンにはそっぽを向かれたまま、ドライバーが街を歩くのにマスクも帽子も必要ないほど知名度も人気も無く、TV/新聞に報道されることもほとんど無くなり、その上、もっぱら外国製のシャーシだけにご執心ですから、日本の技術にも産業にも全く貢献することも無いばかりか、日本のレース予算を無為に外国へ貢ぎ続けている、一体、何のために存在しているのかすら要領を得ないまま、それでも生きながらえている不思議な存在となっていました。
だから私は、レーシングカーの国産化を中心としたFNの改善策を何度も何度も提案してきましたし、1998年には、無限からの指示により、FN用シャーシ「ML」を開発し、無限はそれに1年間OH不要の新型エンジンを付けての供給をJRPに申し出ましたが、JRPトップ(元レーサーN氏)の「特定の一社(童夢)に利益を集中させることはできない」と言う一言で拒否されてしまいました。

         茂木でのレースも考慮してオーバルも走行可能なMLの試作車


まあ、いくらレーシングカー馬鹿の私でも、このような愚かしい采配に理念の裏付けがあるとも思えないし、また、感情論だけで動いているとも思えませんでしたから、やっとそこに大人の事情みたいなものも見え隠れするようになってきました。
いわば、お気に入りの女子大生が可愛いけれどアホなので心配していたけど、金持ちのじじいの愛人であることが分って気持ちが離れたみたいな失望感とともに、急激に興味を失っていきました。

私がFNの悪口を言い出すとキリもありませんが、もっと言えば、「自動車レースは自動車の戦いである」という本質を無視していること、レーシングカーやエンジニアやサーキットやエンジンメーカー等、それこそ数えきれないほど多くの要素が重層的に重なって成立している自動車レースのほんの一部にしか過ぎないドライバーの腕比べのみを重視した微視的な施策に何の意味も価値も無いこと、車両の平準化を重要視するあまり、セッティングなどのエンジニアの仕事やエンジニアリング的な創意工夫までも制限したり、輸入車しか採用しない不文律によって日本の技術と産業のレベルを著しく低下させていること等があげられますし、日本のレース予算を国内で回していれば、その資金は回りまわって、童夢がF4の発展振興の為にかなりの私財をつぎ込んだように国内に還元されますが、海外に流出したら二度と帰ってきません。つまり、ひたすら日本の自動車レースのレベルを劣化させるために存在しているような不必要悪とも言えるような自己中で傲慢なレースです。

ではその結果がどうなったかと言うと、現状、東南アジアのモータースポーツ熱の盛り上がりは1960年代の日本を髣髴とさせますが、当時の日本では、LOTUS、BRABHAM、PORSCHE、JAGUAR、MARCOSなどのそうそうたるレーシングカーが初お目見えして大いに興奮して、発奮した私たちは、せっせと外国のレース関係誌を入手して、憧れのレーシングカーの情報を少しでも吸収しようと努力したものです。
しかし現在、東南アジアにおける自動車レース先進国であるはずの我が国が、その東南アジアに販売できるレーシングカーが何も無く、ヨーロッパのコンストラクターの営業活動を、ただただ指をくわえて見ているしかない事ははなはだ遺憾の極みです。
何よりも、少し前までは、電子/IT関係などの製品においては、このままでは世界中が日本製になってしまい国際的な問題にまで発展するのではないかと真剣に心配していた我々の世代の人間には信じられない現実が展開しています。
若者たちは、米国製のipadを誇らしげに使い、韓国製の携帯電話に違和感を持ちません。走っているOSも日本語ワープロさえ外国製であることや、PCの中身も外函も全てが外国製であることも当たり前だと受け止めています。
宇宙に行くのに外国のロケットに乗せてもらうことも、国を守る戦闘機が輸入品であることにも疑問はありません。

要するに、私は日本の国益と誇りについて語り、JRPはドライバーが走り回る興業を成功させることに四苦八苦していただけですから、土台、届きようも無い異次元の話をしていた訳で、まあ、猿山に向かって神の教え説いていた宣教師みたいなもので、傍から見ていた人にはおかしな人と思われていたのでしょうし、サルからはうるさがられてバナナの皮を投げられていたような状況だったのでしょう。

そんな、ちょっと客観的に見始めてからかなり時間が過ぎた昨年あたりから、次期FNシャーシの選定みたいな話がちらほらと漏れ聞こえてきましたので、私もJMIAの会長としては放っておく訳にもいかず、又もやJRPに対して国産化への提言を投げかけましたが、その際の事前のヒヤリング段階で、JRPの社長から、今まで外国製のフォーミュラを輸入していた特定の輸入業者を通して買えるなら国産に出来ると言われ、私は、そんな偏った状況に与する必要はないと、その後は放置していました。
しかし、それからだいぶ後、JRPから正式に国産シャーシの見積もり依頼があり、真摯に検討を進めるという事だったので、JMIAとしても真剣に対応し、コンペティターの中では最も好条件の見積書を提出しました。
同時に、JRPが大嫌いでJRPにとても嫌われている私は、一切、表に立たず、本件に関しては由良拓也が専従として営業活動を担当することになりました。
その由良のポチ的完全恭順姿勢が功を奏したのか、いつになく国産化への期待が高まる中、マレーシアでF4のPR大作戦を実施していた私のレポートの文中に「マレーシアで汗まみれになりながら日本製レーシングカーの海外進出を図る自分と、何かと外国製のフォーミュラの輸入を画策するJRPの連中の落差が、より虚しさを増幅してくれますね」と書いてあるのを見つけて、それを理由に、またもや外国製の導入を決めたという事です。

由良は、努力を無駄にされたと怒ってJMIAの理事を降りましたが、話は、それほど単純ではありませんでした。今までの文章をご覧になってお解りのように、私はJRPの発足以来ずっと批判を続けてきましたし、この外国に貢ぎ続ける無為無策を、繰り返し、売国奴/非国民とまで罵ってきた私の「何かと外国製のフォーミュラの輸入を画策するJRPの連中」と言うくらいの穏やかな表現を理由に、速攻、国産を止めて嬉々として外国製の輸入に走るとは考えられません。
理由は直ぐに分かりました。それまで便宜を図ってくれていた、その特定の輸入業者のトップが亡くなった為に外国のメーカーに発注する場合に手付金を支払わねばならなくなりましたが、JRPに予算が無かったので、やむなく、開発費を立て替えてでもやりそうなJMIAにすり寄ってきていた訳ですが、ちょうどその頃、GP2のワンメイクをドタキャンされたダラーラが先行して開発していたモノコックなどの処理に困り、好条件でJRPに話を持ち掛けてきて、JRPがそれに飛び付いたという話でした。
そこで、急きょ、JMIAを断る必要が出てきたので、その理由に私のネットでの発言が採用されたというお粗末ですが、それを信じ込んで私を非難するナイーブな人達は、お花畑を舞う紋白蝶のように心に安らぎを与えてくれます。
いずれにしろ、FNにとってのレーシングカーなど、利権の具か刺身の妻ほどの存在にしか過ぎないという事です。
ここには、誰一人として、日本の自動車レースの未来に思いを馳せるような人はいません。

ついでに言えば、JRPの連中が外国製の優位について理由を語るときによく出てくるフレーズは「外国のコンストラクターは実績と経験が豊富」ですが、今まで、その実績と経験を与える事に加担して来たのも日本のレース界と自動車メーカーですから、もし、その理由で海外に発注を続けたら、その実績と経験はますます格差が開く訳で、つまり、論理的に言っても、絶対に国産を使うことは無いと宣言しているようなものです。
「技術力の差」も常に出てきますが、競争も無いワンメイク・レーシングカーは、いわば、いかに安く作るかだけがノウハウのバッタ商品と言えるものであり、熾烈な競争にさらされているGT500やルマン用のレーシングカーの開発技術とはかけ離れた技術領域の話であり、その見識の浅はかさには愕然とします。
我々にバッタ商品を作るノウハウが無いと言われれば無いかもしれませんが、それは見積りで判断すれば良いだけの話で、クライアントが安造りのノウハウ云々を言う筋合の話ではありません。
ワンメイクのシリーズ戦は、耐久性能やスペアパーツの価格など1シーズンを通じてのコストが重要ですから、土台、JRPに選択能力すらありません。
また、「ドライバーの腕の差が出やすいシャープな操縦性が重要」などというもっともらしい話も出てきますが、一体、このレーシングカーにとって最も難しい要求をどのようにコンストラクターに伝えどのように開発に反映させるというのでしょう?
レストランに行って「一番安くて一番おいしいワインを持ってこい」と言っているようなもので、その難しい要求を具現化させるためには、自身に、どれほどの経験と知識が必要なのか、全く理解できていないんでしょうね。
私はこのJRPの侵し続けてきた罪と責任が断罪される時が来ない限り、日本の自動車レースに夜明けは無いと思っています。

しかし、ここでよく認識しておかなくてはならないのは、それでも、ここにはFNが続いてきたという現実がありますし、私の意見が常に少数派、と言うよりほとんど私一人だけが叫び続けているだけですから、つまり、日本のレース界においては、私だけが異端であり、どちらが正しいとか間違っているというような問題以前に、民主主義的に考えれば、私の意見など取るに足りない少数意見という事になります。
また、このFNを資金的に支え、実質的に施策を支配しているのが自動車メーカーであり、現実問題として、現在のほとんどの日本の自動車レースを資金面で支えているのも自動車メーカーな訳ですから、いわば、御上の意向ということになります。

また、まだ具体的なお話は出来ませんが、もう一つ、どうしても付き合い切れない問題点があり、ここをぶった切る為の準備も整えつつありますから、いずれ、時期が来たらお知らせできると思いますし、「ああ、あの時の訳の解らないセリフはこの事だったのか」と思いだして頂けると思います。
まあ、水飲み百姓のような私が、御上にたてついて今までよく生きながらえてきたものだと感心しますが、今までの長きに亘る日本のレース界に対する違和感に加えて、最近の、F4がらみの出来事や今回のFNの件がとどめとなり、気分としては、今までの、諦めたとか匙を投げたというより、係わるのも嫌という思いで吹っ切れてしまいましたので、喜ばれる方が多そうなのも腹立たしい限りですし、少なからずの敗北感もありますが、ここは素直に気持ちに従い、失礼いたしましたと矛を収めるべきだと思っています。

という訳で、2012年8月31日付の童夢の「NEWS RELEASE」でお知らせしたように、本年の8月末日をもちまして、JMIAの会長職を副会長の大岩さんに譲り、童夢の社長は鮒子田 寛に譲り、私はあらゆる日本のレースシーンより消え去ることにしましたので、お後はよろしくお願いします。

林みのる