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Nov.05 2019 ブラジャーVSレーシングカー副読本[童夢と林の最後の夢]

元嫁との泥沼の紛争についての拙著「ブラジャーVSレーシングカー」を上梓していますが、私の文章の最大の欠点は長い事です。一切の反論を封じ込めておこうと思うあまりに多角的な説明を試みますから、ついつい長くなってしまいます。結果、読んでもらえなくて反論もくそも無くなるので逆効果なのは重々に承知しているのですが、性格なのでしょう直りません。
そこで、1/10くらいに簡略化した「ブラジャーVSレーシングカー digest版」という小冊子を作るとともに、私のホームページ「林みのるの穿った見方」のコラムにアップしましたが、思い切ってバッサリと削ってしまったので、そもそもの事件の発端となっている「童夢と林の最後の夢」の内容についても簡略化されており、全財産を処分してまで、一体、何をやりたかったんだ?と聞かれることが多くなりました。
そこで、本編では、私の人生の最後を大輪の花で飾るはずだった稀有壮大な計画である「童夢と林の最後の夢」が何だったのかというところに焦点を当てて話をさせていただきたいと思っています。
逆に、これを始めて読まれた方は、是非、その「童夢と林の最後の夢」を叩き潰した原因が何であるかを説明している「ブラジャーVSレーシングカー(林みのる著 第三書館出版)」または、コラムに掲載している「ブラジャーVSレーシングカー digest版」を読んでください。これはこれで猟奇ホラーとしても充実した内容となっています。実話ですが。


「全体像」
本文を始めてお読みになる方には訳が解らないでしょうから、概略だけをお話ししておきますと、かねてより、「70になって仕事はしない」と言いふらしていた私は、66歳になって引退が現実味を帯びてきた2011年頃、何を考えていたかと言うと、痺れるような人生最後の大博打に心を奪われていました。
その頃、幸いにも私の会社である㈱童夢や関連企業の業績は好調でしたし、無借金経営を実現していましたし、大手企業が会社や施設の譲渡を求めていたような状況下、私には、全てを売却して悠々たる老後を満喫するか、誰かに経営を任せて利益を享受するかの選択肢がありましたが、何しろ、14歳でバイクにのめり込んで以来、親からこずかいももらえず、ゼロスタートで童夢を立ち上げてきた私としては(親の名誉のために言えば、その後、なにがしかの資産は相続していますが)、それが有意義な浪費であればゼロに帰する事は恐れていませんでしたし、大博打ですから成功すれば糊口をしのぐくらいは期待できますから、ハナから悠々自適の選択肢はありませんでした。
この、社内通称では「遺作プロジェクト」と呼ばれていた「童夢と林の最後の夢」の実現には、かなりの予算が必要でしたから、童夢を含む当時の私の資産の全てを売却して挑もうと準備を進めていたところ、何故か同じタイミングで離婚話が浮上していた元嫁が、相続対策の為に元嫁の名義を借りていた私の資産を「私の名義だから私の物」と言い出し、結局、裁判までもつれ込んだものの取られてしまい、資金不足から「童夢と林の最後の夢」は頓挫してしまったという、ちょっと信じられない展開となりました。
つまり、盛業中のイケイケの会社を売却した上で多くの資産を取られて目的を果たせなくなり、残った資産で細々と暮らすと言う極めてあほらしい結果となりましたが、その恐るべき顛末については、是非、「ブラジャーVSレーシングカー(林みのる著 第三書館出版)」をご笑覧ください。


「日本の自動車レース事情」
さて、「童夢と林の最後の夢」の意味をご理解いただくには、まず、日本の自動車レースに関する根本的な問題点からお話しなくてはなりません。
技術立国と言われ続けてきた日本ですが、現状、その実態は限りなく脆弱です。過去の栄光にしがみ付いている人達には、既に中国にも追い越されている現実も見えないし見たくもないのでしょうが、これだけ技術力の育成を蔑ろにしてきたら当然の結末です。それは自動車レースの世界でも変わりは無く、ほとんどのレーシングカーを輸入に頼り、HONDAやTOYOTAですらF1やルマンなどのビッグレースに参戦する時は外国の企業に丸投げすることが当たり前になっていますから、これでは、自国のレース産業や技術を育成するどころか、国内のレース予算を海外に流出させ、その資金で海外のレース産業はますます発展し技術力も向上する一方、国内のレース産業を、ますます疲弊させていくだけの売国的で愚かな行為です。
ほとんどの方は日本の自動車メーカーの技術力を高く評価されているでしょうから、この私の説明も素直に耳に入らないかも知れませんが、童夢は日本の自動車メーカーのワークス・レーシングカーの開発を受託してきましたし、自動車メーカーは現在も主要なレーシングカーの開発を海外に丸投げしている実態からも解るように、つまり、日本の自動車メーカーは優等生を量産する技術には長けているものの、レーシングカーやスポーツカーなどの特殊な車両の開発能力は脆弱です。
私は、ここ20年くらいに亘り、「日本の自動車レースの発展には日本の技術力を成長させて海外への資金の流出を抑制する事が重要だ」と説いてきましたが力及ばず、未だに、日本の自動車レース界も日本の自動車レースを主導する自動車メーカーも、まるでブランド狂いのセレブマダムのような外国崇拝が続いていますから、さすがに私も言い飽きたというか根負けしたというか、それも私の引退を後押ししていた理由の一つとなっていました。


「最後にカッコつける」
童夢は、2006年に米原の新社屋を建設したときに借り入れた10億円を数年間で完済して無借金経営を達成していたほど業績は好調でしたから、2009年にはJAF-F4用のカーボン・モノコックを開発して供給を開始したり、スーパーFJを開発して生産/販売権を業界に提供したり、2002年には「童夢 S102.5」でルマンに参戦したり、2014年にはGT300用マザー・シャシーを開発してレース界に供給したり、2015年にはFIA-F4を開発して販売を開始したり、「STRAKKA 童夢 S103」を開発するなど、自己資金を投入してのレーシングカー開発やレース界の振興に寄与するような様々な施策を打ち出していましたが、この業界を知る人ならご理解いただけると思いますが、どれ一つとして還元を期待出来るようなプロジェクトはありませんでしたから、ただただ浪費していただけあり、我田引水的に言わせていただければ、幕引きの近づきつつある私がレース界に何を残していけるかを手探りしていた頃でした。
しかし、前述したような、日本のレース界を発展振興させるための提言も、様々な奉仕的な活動も、相変わらず「童夢だけが儲けようとしている」と反発されるだけの徒労に終わっていましたから、このような料簡の狭いレース界の人達が相手では、並大抵の仕掛けでは潰されてしまうのがオチだという事が解っただけでした。
一時期は、何をしても、とやかく言われるだけのレース界に見切りを付けて、ハワイの豪邸で余生を過ごすという選択肢も頭をよぎりましたが、何をトチ狂ったのでしょうか、私は逆に、あの木を見て森を見ないレース界の人達でさえも認めざるを得ない稀有壮大な大仕掛けを置き土産に引退してやろうという、とても危険な方向に走り出していました。
究極の夢とか華麗なる幕引きとか最後の檜舞台などの奇麗なお題目は付けられますが、正直言って、最後は力業でレース界の連中をギャフンと言わせてやろうと言う魂胆もありましたし、人生の最後に大輪の花を咲かせてから潔く身を引くという自分なりの美学に酔いしれてもいました。


「スポーツカーの開発システム」
話は少し遡りますが、童夢は最初の「童夢-零」以来、何回も、公道を走るスポーツカーの実現に挑戦してきましたが未だに実現できていません。それは、法の網目をかい潜って何とかするというレベルの話では無く、個人が自動車を製造販売することが法律で禁じられている訳では無いのだから、しかるべき方法と基準で審査しろと言い続けてきたからですが、結局、まともに取り合われる事も無く実現には至っていません。
まあ、童夢にとっては喉に刺さったままの魚の骨のような状態でしたが、近年、世界的に少量生産車のナンバー取得が困難になってきており、童夢には、イタリアのカロッツエリアから、最近は法規制が厳しくなり少量生産車のナンバー取得が難しくなって事業に影響が出始めているので日本で何とかならないか?という相談が来たり、アメリカや台湾や中国や国内からは、うわさに聞く日本の「組立車」によるナンバー取得に興味を持ち、日本での開発/生産を打診してくる事も多くなっていました。

もう15年くらい昔になりますが、マレーシアでTVRのスポーツカーを生産/販売していた会社から、TVRのライセンスが切れて売ることが出来なくなるので次期車の開発をお願いしたいという依頼が来ました。知人の紹介だったのでマレーシアまで行って真摯に対応していたのですが、その会社は、マレーシア政府が産業振興のために少量生産車の製造販売を許可している少量生産車メーカーだったので、私は途中から、童夢が開発したスポーツカーをこの会社に製造販売させるというJVを考えるようになり、夢が膨らみつつある時に、突然、この会社は倒産して消滅してしまいました。
それからしばらくはマレーシアともご無沙汰だったのですが、2010年頃からレース関係の用事で頻繁にマレーシアを訪れる機会があり、もう少し規模の大きい少量生産車の製造販売をしている会社の社長と知り合いましたが、何回か会う内に経営不振だから会社を売りたがっている事を知りました。
私もうかつなことは言えませんから、その社長には何も言わないまま、マレーシアの弁護士を雇っていろいろ調べ始めましたが、少量生産車の製造販売の許可は既得権益のようなものであり、新たな企業への許可は期待できない、つまり希少価値であることが解りました。デューディリまで至っていないので財務内容は解らないもの、かなり借金がありそうでしたから、それが問題でした。
マレーシアではエンジンは輸入できるもののシャシーは産業保護のために輸入を禁止されていますが、しかし、貿易協定によりタイからは輸入できるので、カーボン・モノコックはタイの「DOME COMPOSITE THAILAND」から供給できますし、図面さえあれば、かなり高度な工業製品が安く作れる環境である事なども解ってきました。
いろいろ調査が進むうち、それやこれやの全てをミキサーに放り込んでジュースにするように、いつしか、私の頭の中で一つのイメージが膨らみはじめ、次第に具体的な形になっていきました。
それは、設計開発を(その頃は新生童夢となっているはずの)童夢が担当し、これからのレーシングカー/スポーツカーに欠かせない高品質なカーボン製の車体はタイの童夢COMPOSITE THAILAND (当時)から供給し、買収したその少量生産メーカーに新型車の型式認定の取得と生産/販売を担当させるという、東南アジアをネットワークした気宇壮大な構想でした。
もし、このシステムが実現すれば、オーダーメード・システムとして、これほど高度な開発技術力と高品質なカーボン車体製造技術とナンバー取得が可能な生産工場の合体は世界に例を見ませんから、例えば、ZAGATO(イタリアの名門カロッツェリア)が100台のスポーツカーを市販したいと思っても、現状では莫大な認定取得費用が必要となり、ほぼ不可能ですが、童夢が受託することにより実現が可能となりますし、自動車メーカーがフラッグ・シップとして100台だけスーパーカーを市販したいという要望にも応えられますし、好みの車を作って販売したい小規模な自動車メーカーを目指す人の夢も実現できますし、アメリカのお金持ちのワンオフのカスタム・ロードカーを作りたいという希望にも応えられますし、EVの販売を考えている自動車メーカー以外の企業も興味を示すでしょうから、マーケットは地球規模に広がったでしょう。大風呂敷を拡げるならば、ひょっとしたら世界のスポーツカー事情を塗り替えることになるかもしれない稀有壮大な計画でした。
そうして童夢が担う設計業務が忙しくなれば、必然的に人も増え技術レベルも向上し経験も積んでレーシングカーの開発能力も育ち、10年後には、日本製レーシングカーが世界のサーキットを埋め尽くしている可能性も夢ではありませんでした。


「遺作プロジェクト」
目標さえ定まれば暴走はお手の物でしたから、急激に、絵に描いた大きな餅がこんがりと焼きあがっていって、私いわくの「童夢と林の最後の夢」、社内通称「遺作プロジェクト」は走り出しました。
さすがに暴走ですから計画は杜撰です。まず、このプロジェクトのシンボルとなるスーパー・スポーツカーの開発を開始しますが、子会社の「童夢カーボン・マジック」の東レへの譲渡と、風洞実験設備「風流舎」のトヨタへの売却(別の事情と計画がありました)を確定させてから物件の引き渡しまでの期間に、それらの設備を使ってスーパー・スポーツカーを開発してしまおうと言う綱渡りのような計画でしたからタイミングが重要でした。また、マレーシァの少量生産車のメーカーも青息吐息の感じでしたから、あまりに話が長引くと消えてしまう心配もありました。


当時の企画書の全体構想の説明資料の一部を紹介しておきます。この頃、東レは「DOME COMPOSITE THAILAND」の譲渡も希望していましたので、交渉の都合上、ここには記載していません。かなり、夢と希望に溢れた面白い計画だったと自画自賛しています。


「ウルトラCの資金調達法」
どんな計画も同じですが、妄想はとどまるところを知らずに広がっていきますから、どんどんと予算規模も拡大してきて、最終的には、オリジナル・マシンを開発してルマンに参戦するのに比べて10倍くらいは必要となりそうでした。
もちろん私も、何の目途もなく妄想を膨らませていた訳ではなく、当初は、稼いでくれていた「童夢カーボン・マジック」の利益で賄うことも考えましたし、銀行も喜んで貸してくれたでしょうが、もとより、数年後の私の引退を前提とした話ですから、ここで借金を残すわけにはいきません。
幸いな事に、当時、複数の大企業から「童夢」や「童夢カーボン・マジック」や「風流舎」を譲渡してほしいという依頼が来ていましたので、いろいろ葛藤はあったものの、すっぱりと全てを売却して、その売却益をつぎ込むのが最も私の最後の打ち上げ花火にはふさわしいと思うようになっていました。
思えば、ずいぶんと乱暴なエンディングに向かって突っ走っていましたが、しかし、その、家財道具を売り払ってラスベガスに勝負に行くような「やたけた(大阪弁)」な戦略も、私の最後を飾るにふさわしい大博打だと思っていたくらい、この頃は、根拠のない自信に溢れていたものです。

東レへの「童夢カーボン・マジック」の譲渡は順調に進み2013年3月18日には童夢と東レからのプレスリリースにより正式に発表されましたが、その時の童夢のプレスリリースはネットで話題になっていました。
(要約)私は、70の声を聞く3年間で完全にリタイアしようと思っていますが、では、なぜ?あと3年間かと言うと、私には、どうしてもやりたい事がもう一つだけ残っているからです。しかし、私が最後にどうしてもやっておきたいことはルマン24時間レースではありません。
-中略-
今までの資金源であった童夢カーボン・マジックを売却し、その売却益を投入して私の最後のお遊びに使い果たそうと考えた訳です。
-中略-
私はこの3年間に思いっきり自由な車造りを楽しんで、「あー、楽しい人生だった」と満たされた気持ちでリタイアする予定ですのであしからず。
ネットでは「[童夢が大手企業に童夢カーボン・マジック社売却] しかし、すごいのは童夢からのプレスリリースで、経済ニュースで終らせない林氏のぶっ飛びコメントが話題に!」「ぶっちゃけ過ぎだが、カッコいい:大手企業の童夢カーボン・マジック買収についての童夢のプレスリリース、童夢オーナー[売却益でクルマ造りを楽しむ]」「童夢、子会社の童夢カーボン・マジックを大手企業に売却。新車開発費へ。いやでも期待はふくらむ!」などのコメントが溢れていて大変に話題になっていましたし、出来てくるであろう新型スポーツカーへの期待も膨らんでいました。これらのコメントは、まだネット上に残っています。


「とわ」
これは極めて個人的な思い入れではありますが、スポーツカーを市販すると公言してスタートした童夢は最初の「童夢-零」も「童夢 P-2」も「CASPITA」も市販には至っていません。何とか、このあたりのけじめを付けておきたかったのと、レーシングカーを1台作るのとロードカーを1台作るのとでは圧倒的にパブリシティ量が異なることは何回も経験済みですから、この「童夢と林の最後の夢」の旗揚げに際しての世間へのアピールを考えるに、どうしてもシンボルとしてのスポーツカーの開発がマストでしたし、私としても、遺作としてロードカーを残す事に拘っていましたから、いち早く、開発をスタートさせていました。
名前は「とわ」に決めていました。「童夢-零」から始まり「童夢-とわ」で終わるという筋書きです。このスケッチは初期のものであり、まだまだ紆余曲折が続く予定でした。


「組立車について」
ここで、よく聞かれる質問にお答えしておきたいと思います。それは、何もマレーシァの会社を買わなくても国内で「組立車」としてナンバーを取得すれば良いじゃないかという疑問ですが、あるカスタムボディ屋さんが、自社の改造車のナンバー取得の道を探るプロセスにおいて「組立車」というカテゴリーに目を付けて、地方の陸運事務所にお百度参りした結果、根負けした陸運事務所から99台なら生産しても良いというお墨付きを取ることに成功しました。その後、徐々に99台の「組立車」は既成事実化していき、現在は、国交省でも、車を作りたいという人には「組立車」を案内するくらいになっています。
一見、快挙に見えるものの、土台、発想の原点がボディの改造車ですから99台でも成立しますが、普通、「自動車を作る」と言えばシャシーも含まれる場合がほとんどですし、プレスフレームにしろカーボン・モノコックにしろ、少量生産車と言えども、かなりの開発費や型/治具等の費用が発生しますから、そうなると、99台では成立しません。つまり、既存の車の外装だけを変えたカスタムカー用の抜け道にしか過ぎず、却って正規の型式認定への道の障害となっている訳です。
何よりも、もともと「組立車」は法律で「販売の用に供してはならない」と定められていましたから本来は無理筋な話のはずですが、立法機関を無視してのお墨付きは法治国家にはなじみません。
しかし、現実には、事実として日本での型式認定取得の道は閉ざされていますから、40年前の「童夢-零」の時と何も変わらないまま、これとて抜け道にしか過ぎませんが、マレーシァに向かわざるを得なかった訳です。


「童夢と林の最後の夢」の崩壊
時系列的に言えば、私が2011年頃に「童夢と林の最後の夢」を実現するために会社等を売却すると言い出して、徐々にプロジェクトが動き始めた2012年になって、状況的には元嫁に追い出されるような形で別居となり、その後、元嫁が弁護士を入れて私の資産の収奪を仕掛けてきます。
2013年に子会社の東レへの譲渡がクロージングする頃に離婚に至りますが、元嫁が、その売却益を奪ってしまったので紛争が激化し、そうこうして揉めているうちに「童夢と林の最後の夢」を実現できるタイムリミットを迎えて2014年の3月に計画は頓挫してしまいました。
まだ何も解決していなかったので、それから裁判にもつれ込み、延々と慣れない法律関係の書類の山を前にした奮闘が続いていきます。


「マザー・シャシー」
前述したように、日本のレース界の木を見て森を見ない人たちには全く理解されていませんが、実は私、日本の自動車レース産業を発展振興させることを目的に、自腹を割いて様々な取り組みをしてきました。
「マザー・シャシー」も一例ですが、当時、スーパーGTのGT300クラスがFIA-GT3に浸食されて日本製のレーシングカーが駆逐されそうになっていましたから、防御策として、日本のチームが独自のGT300マシンを製作するためのベースとなる「マザー・シャシー」構想をGTAの坂東に提案し、協力して実現を目指そうと計画していました。しかし、サスペンション付きのローリング・シャシーとなると開発費もかさみますが、そんな費用を負担してくれる奇特な人は誰も居ませんから、たまたま開発を進めようとしていた「童夢-とわ」のモノコックをベースにGT300用のローリング・シャシーを開発して、開発費の要らない形でGTAに供給する事を決めました。
ところが、開発途中の2014年に、元嫁との紛争で「童夢と林の最後の夢」が頓挫してしまう事になり、GTAとの約束は果たせなくなったのですが、坂東との約束もありますから、結局、最初からGT専用として新たに開発をやり直して「マザー・シャシー」が誕生することになりました。だから、「マザー・シャシー」は唯一の「童夢と林の最後の夢」の置き土産になったという訳です。


「童夢の終わりと始まり」
こうして、会社などを売却したのに「童夢と林の最後の夢」も崩壊してしまい、全く予定とは異なる状況で引退の時期も迫り、2015年の7月に京都の東急ホテルで引退パーティ「童夢の終わりと始まり」を開催して、同時に「童夢」の友人への譲渡も発表しました。
気が付けば私は何もかもを失い、なんか、突然に乾いてひび割れた大地の真ん中にポツンと立っているような状況となっていましたが、そんな空疎な虚脱感を味わっている暇もないほどに裁判では劣勢が続いており、私は、相も変わらず裁判書類との睨めっこの日々に追われていました。
それでも、友人に譲渡した童夢の顧問を引き受けていましたので、これからの童夢の発展に寄与するべく、いろいろと手助けをする立場にありましたから、新生童夢の立ち上げにも深く関与していました。
当初から私はレーシングカーを作り続ける事を譲渡の条件にしていたのに、友人の新オーナーも新社長も積極的ではなく、「経営が安定するまでは先行投資は行わない」などと動く気配もありませんでしたが、約束が違うという思いもありましたし、唯でさえ存続すら難しいとされるレーシングカー・コンストラクターの経営が安定するのがいつになるのか解りませんし、それまで技術力を維持することも難しいでしょうから、私は、妥協案として開発費が少なくて済む軽四クラスのスーパー・スポーツカーの開発を提案しました。
しかし、オーナーが変わっただけで、今まで、専用のレーシングカーを開発してルマン24時間レースに挑戦を続けていたのが夢か幻かと思えるほどにレーシングカーの開発が遠くに感じられるようになっていましたし、童夢に対してレーシングカーを開発する事を提案したり勧めたりする事こそ違和感に溢れていて、熱心にレーシングカーの開発を提案している自分の立ち位置が解らなくなるほど不思議な感覚に陥っていました。しかし、結局「当面は何もしない」という事でボツになりました。


「K4SS」
もともと、童夢の帳簿も決算書も実印すらも見たことのない、交通違反以外に司法の世話になったことのない私が、金がらみの裁判をしているのですから、それは、フランス語とギリシァ文字の書類をやり取りして戦っているようなもので、隔靴掻痒どころか、その頃のストレスは半端ではありませんでした。
あまりの怒りに元嫁との戦いに没頭してきたものの、本質的には空しい作業の連続であり、正直、飽きていましたし、どうしてもモチベーションを保つ事が難しくなっていましたから、いつしか、裁判書類を調べる手を止めて、気が付けば車のスケッチをしているようになっていました。
私はあきらめの悪いところがありますし、それが執拗に目的を完遂する原動力にもなっていましたが、その絵は小さな小さなスーパー・スポーツカーばかりで、これは、初期の童夢に提案した軽四クラスのスーパー・スポーツカーのコンセプトそのものでした。
今更、何千馬力を競う超ど級スーパーカーには全く興味がありませんが、繊細なドライビングが要求されるライトウェイト・スポーツカーには興味がありましたし、小さな車体における安全性の向上というテーマは、そのままレーシングカーに応用できる技術分野ですから、意味も意義もありました。

また、なかなかクルマ作りに動き出さない童夢を巻き込む作戦として、私が「鈴鹿の車を作りたい若者集団」を使ってJAF-F4のシャシーを使ったプロトタイプを製作し、具体的な形を見せることによって、その後の童夢への開発業務の移管をスムーズにする効果も目論んでいました。
レーシングカー作りに寝食を忘れてきた私としては、このK4SS(2016年~)をスタートさせればクルマ作りに熱中して元嫁との戦いの呪縛からも解き放たれると思っていましたが、日々、弁護士から聞かされる理不尽な展開に怒り心頭に発していた私は、解き放たれるどころか、ますます熱くなっていましたし、「鈴鹿の車を作りたい若者集団」への指示も後手後手に回るようになっていました。
加えて、やはり経験の少ない「鈴鹿の車を作りたい若者集団」による基本レイアウトは思うように進捗せず、契約期間内の完成は絶望的となっていましたので、開発を早い目に童夢に移管する事にしたところ、「鈴鹿の車を作りたい若者集団」の作業内容や費用等において幾多の問題点が露見し、いわゆる揉め事となり移管が難しくなっていました。
そんな頃、私は心筋梗塞で意識不明に陥って倒れてしまいましたが、幸い、家族が横にいたから助かったものの、それやこれやが重なり、K4SSの再構築にかけるエネルギーも途切れたままに、このK4SSも頓挫してしまいました。


「信じられない惨敗」
2012年の紛争開始から5年の歳月を元嫁との戦いに明け暮れてきた訳ですが、2017年になって訴訟提起していた5件の裁判に全て敗訴し、全てを取られてしまいました。
なぜ負けたのかと言うと、元嫁が全て嘘で固めた主張をして裁判所がその全てを信じ込んだからですが、その中には「何回も金を貸して返していない」とか「生活費を一切負担していなかった」とか「元嫁の名声と社会的信用を充分に利用していた」などの有り得ない主張が数多く含まれていましたから、一応、それなりのプライドをもって生きてきた私としては看過しがたく、そのような不名誉な嘘を暴いておかなくては泣き寝入りも出来ません。
巷での噂も、裁判に負けたことで、なお更に私に不利な内容となって拡散していましたから、なんとか事実を詳らかにしようとドキュメンタリーである「ブラジャーVSレーシングカー」の執筆に、日々、時間を費やしていました。


「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクト
2019年1月に、やっと第三書館から「ブラジャーVSレーシングカー」が出版され、ちょっと一息ついていた頃、いろいろな状況と必要性も生じていましたが、基本的には私の虫が騒ぎだしたのでしょう、私が費用負担して童夢に発注する形でロードカーを開発する流れになりつつありました。
K4SSで進めていたコンセプトを煮詰めなおして、究極の安全性を求める「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクトを立ち上げる事にしたのですが、ある程度、進めたところで諸般の事情としか言いようがない事態により、このプロジェクトも前に進められなくなってしまいました。
(内容に関しては企画書「[絶対に死なないスポーツカー]開発プロジェクト」を参照してください)
現在の話なので、いろいろオブラートに包んだような言い方しかできませんが、はっきりしている事は、又もやお蔵入りになってしまったという事です。


「[童夢-零]から始まり零で終わる」
「童夢と林の最後の夢」は破綻の止むなきに至り、それではと、プロジェクトを軽量化したライトウェイト・スポーツカーの開発計画の「K4SS」も途中で空中分解となり、ある事情から再挑戦する事になった「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクトも中止に至り、まあ、見事にすべての夢も希望も霧消してしまいました。
そこそこツキだけで生きてきた私としては、晩年になって、ついに運も尽き果てたのか、やる事なす事、全てが裏目に出るようになっていましたが、私が、こういう状況を見越して2015年に引退したのなら先見の明を褒めていただきたいと思います。しかし、元嫁との紛争地獄に落ちるまでの67年間を好き放題に生きてきた私としては、トータルすれば文句を言う筋合いはないと思っていますから、これからは、運が尽きたことに留意しながら注意深く余生を全うしようと思っている次第です。

ここまで、ご笑覧いただきありがとうございました。以下のように、本件に関する資料はいろいろありますが、ぜひ、本ホームページのコラム「ブラジャーVSレーシングカー digest版」だけでもお読みいただき、私の身に降りかかった地獄のような災難にもお目通しください。



コラム/小冊子 「ブラジャーVSレーシングカー digest版」
第三書館版「ブラジャーVSレーシングカー」が長文すぎて不評なので、約1/10に圧縮したdigest版です。本ホームページのコラムにも掲載していますし、小冊子も制作しています。

コラム「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクト
「童夢と林の最後の夢」が破綻した後に、それでもクルマ作りを諦めきれずに、何とか実現してやろうと画策していたものの、最後の最後に立ち上げた「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクトも暗礁に乗り上げ沈没。とどめを刺されました。

書籍(林みのる著 第三書館より出版) 「ブラジャーVSレーシングカー」
この一連の紛争に関して、今までもフリーライターの執筆になる「クラッシュ」「クラッシュ Ⅱ」という本が出版されていますが、世間では、私の方が元嫁の資産を取りに行っているがごときの噂が広がっていますので、それを払しょくするために私自身が執筆して上梓した本です。最も詳しく説明しています。

書籍(丸山昇著 第三書館より出版) 「クラッシュ」「クラッシュⅡ」
早い時期に、この事件に興味を持ったフリーライターの丸山昇氏と第三書館がルポルタージュとして出版した本です。取材を中心とした構成で、当事者の私とは全く異なったアングルからの視点で書かれていますが、洋子側が完全なる取材拒否を貫いていますから、著者としては不本意な出来栄えという事です。