COLUMN / ESSAY / LETTER

May.01 2019「ブラジャーVSレーシングカー副読本」

私の文章の最大の欠点は長い事である。一切の反論を封じ込めておこうと思うあまりに多角的な説明を試みるから、ついつい長くなってしまう。結果、読んでもらえなくて反論もくそも無くなるので逆効果なのは重々に承知しているのだが、性格なのだろう、直らない。本書では、あえて20000文字以内という目標を定めて簡略な表現に挑戦してみたが削り切れなかった。再挑戦予定。
本書は、拙著「ブラジャーVSレーシングカー」に描かれた事件について説明しているが、同じ内容では意味が無いので、事件の核心については「ブラジャーVSレーシングカー(林みのる著 第三書館出版)」を読んでいただくことにして、本書では、事件についての説明は概略に留め、主として、事件に至る原因となった、私の最後を大輪の花で飾るはずだった稀有壮大な計画の顛末と、その後の出来事など、クルマ造りにかかわる話を中心に語りたい。
一言申し添えるならば、私は印税をもらう契約にはなっていないので、「ブラジャーVSレーシングカー」が売れても私が儲かる構造にはなっていないから、決して売り込んでいる訳では無く、ただただ、何が真実かを見極めて頂きたいと願っているだけである。


「序章」
周辺状況を中心に語るにしても、ここから話を始めないと訳が解らないだろう。ではまず、この事件の伏線となる塚本家の相続対策の話から始めよう。洋子の出自であるワコールの塚本一族は、塚本幸一氏(1998年没)の死亡により発生した多額の相続税に驚き、私とも共通の友達であった税理士の岡本先生に指導をお願いして相続税回避のための対策を講じていた。
それは非常に巧妙かつ計画的に行われていたので、結果的に、洋子の母が塚本幸一氏から相続した26億円は11年後に洋子の母が亡くなって(2009年没)洋子たち3人の子息が相続する時までに15億円が消されて大幅な脱税、いや、節税が成功している。
年を追うごとに大幅な資産の圧縮が実現している事に味を占めた洋子は、その塚本家の相続対策が始まって3年後くらいに、全く同じスキームによる、私から息子への相続対策を言い出した。
これを誰が言い出したかというと水掛け論になりそうだが、私は、相続対策は言わずもがな経理も税務も全く解らないし、童夢を始めて引退するまでの40年弱の間、帳簿はおろか決算書も見たことは無いし実印すらどこにあるかは知らなかったくらい任せっきりだったから、そんな私が、この複雑怪奇な相続対策だけを主体的に推進したという方が説明に無理があるから、実際には、当時、タッグを組んで相続対策に邁進していた洋子と岡本先生の勧めに盲目的に従っていたのが実態だ。
そうして私から息子への相続対策が始まったが、まだ息子が幼児だったことから、テクニック上、一旦、洋子の会社に取得させてから、その会社の株を段階的に息子の名義に変えていく事により、相続税も贈与税も発生しない形で私の資産を息子に渡せるという計画だと聞いていた。

第二の伏線として、結婚直後からギクシャクしていた洋子との夫婦関係が限界を迎えていて、2012年になって別居から離婚へと向かいつつあった。離婚といっても追い出されたようなものだから離婚そのものには全く問題はないと高を括っていたところに、洋子が突然、超大物弁護士をトップとする7名の弁護士団を投入してきたから驚いたが、何と、その竹村葉子弁護士というのはワコールの代表顧問弁護士を20数年間も歴任し社外取締役にも就任する超大物弁護士で、洋子の収奪行為を支援するために兄であるワコールの会長である塚本能交が投入してきた生物兵器だ。
その竹村弁護士は、前述した息子への相続対策として洋子の名義を借りた形になっていた米原の土地や宝ヶ池の不動産を洋子の物だと言い出し、後半には「童夢カーボン・マジック」や「童夢」の株などの全てについて、もらったものであり名義が洋子になっているから洋子のものだと言い出した。
つまり、私が長年に亘って土地や株などをプレゼントし続けていたとの主張を始めた訳だが、その理由として「義母も洋子も何回も金を貸しているが返していないのでくれたと思った」と有り得ない大嘘を言い出したから、私は、何回も何回も証拠を示せと要求したものの、一切、何も示されないまま裁判所も事実と認めてしまうという信じられない誤審のオンパレードのあげく敗訴へと繋がっていく。
しかし、裁判所は騙せても、私は私の名誉にかけて、こんな大嘘は許せないから、元嫁が虚偽であることを認めるまで私の戦いは続く。

第三の伏線が、私が2012年に言い出した70の声を聞く前に引退するという宣言と、童夢社内では「遺作プロジェクト」と呼ばれていた童夢と私の最後の夢を実現させるためのプロジェクトのスタートだった。
還暦は米原の新社屋のお披露目パーティと同時に迎え高速ドリフトで駆け抜けていったから、まだ前しか見ていなかったが、さすが、60歳も半ばを過ぎる頃には自らの能力の低下を認めざるを得なくなってきていたし、童夢のチーフ・デザイナーを自認する私の創造力の衰えは顕著になってきていた。
今まで、何でも瞬間芸のようにこなしてきたから悩んだり迷ったりという経験がほとんど無かったのに、その頃から、スケッチブックを前に同じような絵を何枚も描き続けたり、文章を書くにしても同じところを読み返すばかりで前に進まなかったり、とにかく、自らのアウトプットに自信も達成感も持てなくなって、あれほど楽しい作業だった創造することが苦痛に感じるようになっていた。
しがみ付いて恥を晒すよりは、ひとつ、派手な仕掛け花火を打ち上げてから潔く身を引く事を考え始めていたから、その頃から、70の声を聞く前に引退すると公言するようになっていたし、「遺作プロジェクト」も具体化しつつあった。
これらの伏線が絡み合って、この度の事件へと発展していく事になる。


「日本の自動車レース事情」
まず、日本の自動車レースに関する根本的な問題点からお話ししておこう。技術立国と言われ続けてきた日本だが、現状、その実態は限りなく脆弱だ。過去の栄光にしがみ付いている人達には、既に中国にも追い越されている現実も見えないし見たくないのだろうが、これだけ技術力の育成を蔑ろにしてきたら当然の結末だ。
それは自動車レースの世界でも変わりは無く、ほとんどのレーシングカーを輸入に頼り、HONDAやTOYOTAですらF1やルマンなどのビッグレースに参戦する時は外国の企業に丸投げすることが当たり前になっているから、これでは、自国のレース産業や技術を育成するどころか、国内のレース予算を海外に流出させ、その資金で海外のレース産業はますます発展し技術力も向上する一方、国内のレース産業を、ますます疲弊させていくだけの売国的で愚かな行為だ。
ほとんどの方は日本の自動車メーカーの技術力を高く評価されているだろうから、この私の説明も素直に耳に入らないかも知れないが、童夢は日本の自動車メーカーのワークス・レーシングカーの開発を受託してきたし、自動車メーカーは現在も主要なレーシングカーの開発を海外に丸投げしている実態からも解るように、つまり、日本の自動車メーカーは優等生を量産する技術には長けているものの、レーシングカーやスポーツカーなどの特殊な車両の開発能力は脆弱だ。
私は、ここ20年くらいに亘り、「日本の自動車レースの発展には日本の技術力を成長させて海外への資金の流出を抑制する事が重要だ」と説いてきたが力及ばず、未だに、日本の自動車レースを主導する自動車メーカーの外国崇拝のような状況は変わることなく続いていたから、さすがに私も言い飽きたというか根負けしたというか、それも私の引退を後押ししていた理由の一つとなっていた。
しかし、諦めきれない私は、引退して引き下がるだけではなく、何とか一矢報いるというか足跡を残すというか、少しでも、日本の自動車レースの将来に向けて実効的な貢献が出来る幕の引き方がないかと考えるようになっていた。


「有終の美の飾り方」
童夢は、2006年に米原の新社屋を建設したときに借り入れた10億円を数年間で完済して無借金経営を達成していたほど業績は好調だったから、2009年にはJAF-F4用のカーボン・モノコックを開発して供給を開始したり、スーパーFJを開発して生産/販売権を業界に提供したり、2002年には「童夢 S102.5」でルマンに参戦したり、2014年にはGT300用マザー・シャシーを開発してレース界に供給したり、2015年にはFIA-F4を開発して販売を開始したり、「STRAKKA 童夢 S103」を開発するなど、自己資金を投入してのレーシングカー開発やレース界の振興に寄与するような様々な施策を打ち出していた。
この業界を知る人ならご理解いただけると思うが、還元を期待出来るようなプロジェクトは一つも無かったから、ただただ浪費していただけあり、我田引水的に言わせていただければ、幕引きの近づきつつある私がレース界に何が出来るかを手探りしていた頃だった。
しかし、前述したような、日本のレース界を発展振興させるための提言も、様々な奉仕的な活動も、相変わらず「童夢だけが儲けようとしている」と反発されるだけの徒労に終わっていたから、このような料簡の狭いレース界の人達が相手では、並大抵の仕掛けでは潰されてしまうだろう。
ちょっと考えて頂きたいが、その時、私は大企業に売却した「童夢カーボン・マジック」と「風流舎」と友人に売却した「童夢」の100%を所有していた状況であり、無借金経営だったから、引退に際して全てを売却したとしたら、その全ての売却益は私個人に入り、かなり優雅な老後を過ごせたであろうことはご理解いただけるだろう。
何をしても、とやかく言われるだけのレース界に見切りを付けて、ハワイの豪邸で余生を過ごすという選択肢もあったのに、何をトチ狂ったのだろうか、私は有終の美を飾る事を選び、それも、あの木を見て森を見ないレース界の人達でさえも認めざるを得ない稀有壮大な大仕掛けを考えるようになっていた。
究極の夢とか華麗なる幕引きとか最後の檜舞台などとも言えるが、正直言って、レース界への貢献という課題もさることながら、私は、大輪の花を咲かせて潔く身を引くという自分なりの美学に酔いしれていたのだろう。


「遺作プロジェクト」
その幕の引きかたには、私なりに、いくつかの条件があった。
第一は、借金をしない事。つまり、巨額な資金は子会社などを売却して用意する事。これには伏線があり、各々の会社や施設に譲渡の要請が来ていたことが前提となっている。第二は、私が引退を予定している2015年7月15日までに完了する事。以前から「70の声を聞いては仕事はしない」と言い続けていたから、70歳の誕生日の前日に引退することを決めていた。第三は、私が20年近く言い続けてきて果たせなかった日本の自動車レース産業の振興と技術力の向上に寄与できる内容である事。第四は、誰が童夢を継承したとしても将来の経営を支える柱の一本として機能する置き土産になる事だった。

話は少し遡るが、童夢は最初の「童夢-零」以来、何回も、公道を走るスポーツカーの実現に挑戦してきたが実現できていない。それは、法の網目をかい潜って何とかするという話では無く、個人が自動車を製造販売することを法律で禁じている訳では無いのだから、しかるべき基準で審査しろと言い続けてきたからだが、結局、まともに取り合われる事も無く実現には至っていない。
まあ、童夢にとっては喉に刺さったままの魚の骨のような状態だったが、近年、世界的に少量生産車のナンバー取得が困難になってきており、私にも、イタリアの知り合いのカロッツエリアから、最近は法規制が厳しくなり少量生産車のナンバー取得が難しくなり事業に影響が出始めている。日本で何とかならないか?という相談が来ていたり、童夢にも、アメリカや台湾や中国や国内からマザー・シャシーを使ってスーパーカーを作りたい等との相談が相次いでいた。
彼らにとって、開発が困難なカーボン・モノコックを持つマザー・シャシーは魅力的だし、うわさに聞く「組立車」
によるナンバー取得にも可能性を感じていたから、我々への問い合わせが増えていたのだろう。

もう15年くらい昔になるが、マレーシアでTVRのスポーツカーを生産して販売していた会社から、TVRのライセンスが切れて売ることが出来なくなるので次期車の開発をお願いしたいという依頼が来た。知人の紹介だったのでマレーシアまで行って真摯に対応していたが、その会社は、マレーシア政府が産業振興のために少量生産車の製造販売を許可している少量生産車メーカーだったから、私は途中から、童夢が開発したスポーツカーをこの会社に製造販売させるというJVを考えるようになり、夢が膨らみつつある時に、突然、この会社は倒産して消滅してしまった。
それからしばらくはマレーシアともご無沙汰だったが、2010年頃からレース関係の用事で頻繁にマレーシアを訪れる機会があり、もう少し規模の大きい少量生産車の製造販売をしている会社の社長と知り合い、何回か会う内に経営不振だから会社を売りたがっている事を知った。
そこで、マレーシアの弁護士を雇っていろいろ調べ始めたが、少量生産車の製造販売の許可は既得権益のようなものであり、新たな企業への許可は期待できない。つまり希少価値である。
マレーシアは、エンジンは輸入できるがシャシーは産業保護のために輸入を禁止されている。しかし、貿易協定によりタイからは輸入できるので、カーボン・モノコックはタイの「DOME COMPOSITE THAILAND」から供給できる。図面さえあれば、かなり高度な工業製品が安く作れる環境である事などが解ってきた。

いろいろ調査が進むうち、それやこれやの全てをミキサーに放り込んでジュースにするように、いつしか、私の頭の中で一つのイメージが膨らみはじめ、次第に具体的な形になっていった。
それは、設計開発を童夢が担当し、これからのレーシングカー/スポーツカーに欠かせない高品質なカーボン製の車体はタイの童夢COMPOSITE THAILAND (当時)から供給し、その少量生産メーカーを買収して新型車の型式認定の取得と生産/販売を担当させるという、東南アジアをネットワークした気宇壮大な構想だったが、目標さえ定まれば暴走はお手の物だったから、急激に、絵に描いた大きな餅がこんがりと焼きあがっていった。

もし、このシステムが実現すれば、オーダーメード・システムとして、これほど高度な開発技術力と高品質なカーボン車体製造技術とナンバー取得が可能な生産工場の合体は世界に例を見ないから、例えば、ZAGATO(イタリアの名門カロッツェリア)が100台のスポーツカーを市販したいと思っても、現状では莫大な認定取得費用が必要となり、ほぼ不可能だが、童夢が受託することにより実現が可能となるし、自動車メーカーがフラッグ・シップとして100台だけスーパーカーを市販したいという要望にも応えられるし、好みの車を作って販売したい小規模な自動車メーカーを目指す人の夢も実現できるし、アメリカのお金持ちのワンオフのカスタム・ロードカーを作りたいという希望にも応えられるから、マーケットは地球規模に広がっただろう。
大風呂敷を拡げるならば、ひよっとしたら世界のスポーツカー事情を塗り替えることになるかもしれない稀有壮大な計画だった。


当時の企画書の全体構想の説明資料の一部を紹介しておこう。かなり、夢と希望に溢れた面白い計画だったと自画自賛している。


「とわ」
加えて、これは個人的な思い入れではあるが、スポーツカーを市販すると公言してスタートした童夢だが、最初の「童夢-零」も「童夢 P-2」も「CASPITA」も市販には至っていない。何とか、この決着を付けておきたかったし、ロードカーに関してはやり残した感が大きいので、この「遺作プロジェクト」のシンボルとしてのスポーツカーを私の遺作として残す事に拘っていたから、いち早く、開発をスタートさせていた。
名前は「とわ」に決めていた。「童夢-零」から始まり「童夢-とわ」で終わるという筋書きだ。このスケッチは初期のものであり、まだまだ紆余曲折が続く。


「組立車について」
ここで一つ、要らぬ文字数を浪費しなくてはならないが、国内で「組立車」としてナンバーを取得すれば良いじゃないかという疑問を持つ人に応えておかなくてはならない。
あるカスタムボディ屋さんが、自社の改造車のナンバー取得の道を探るプロセスにおいて「組立車」というカテゴリーに目を付けたが、もともと「組立車」は、「販売の用に供してはならない」と定められていたから本来は無理筋な話だったが、カスタムボディ屋さんが地方の陸運事務所にお百度参りした結果、根負けした陸運事務所から99台なら生産しても良いというお墨付きを取ることに成功した。その後、徐々に99台の「組立車」は既成事実化していき、国交省も、車を作りたいという人には「組立車」を案内するくらいになっている。
これは、一見、快挙に見えるものの、土台、発想の原点がボディの改造車だから99台でも成立するが、普通、「自動車を作る」と言えばシャシーも含まれる場合がほとんどだし、特にカーボン・モノコックの場合、少量生産車と言えども、かなりの開発費や型/治具等の費用が発生するから、そうなると、1台に対する開発費の割掛けだけでも膨大になり99台では成立しない。
つまり、土台、既存の車の外装だけを変えたカスタムカー用の抜け道にしか過ぎず、却って、正規の型式認定への道の障害となっている訳だ。


「ウルトラCの資金調達法」
さて、妄想は自在に展開できるが、問題は、オリジナル・マシンを開発してルマンに参戦するのに比べて10倍くらいは必要となる資金の捻出だ。
もちろん、何の目途もなく妄想を膨らませていた訳ではなく、私は、とんでもないウルトラCを考えていた。
当時、「童夢カーボン・マジック」は稼いでくれていたから時間をかければ利益で賄うことも出来ただろうし、無借金経営だったから銀行から借り入れも出来ただろうが、数年後の私の引退を前提とした話だから、時間もないし、借金を残す訳にもいかない。
しかし幸いな事に、大企業から「童夢カーボン・マジック」を譲渡してほしいという依頼が来ていたので、いろいろ葛藤はあったものの、売却して、その売却益をつぎ込むのが最も妥当な方法だった。
加えて、100名くらいいた「童夢カーボン・マジック」の社員が大企業に移籍できるのだから、これほど肩の荷が下りる話は無かった。
問題は、「とわ」の開発に「童夢カーボン・マジック」の設備や人材が必要だということだった。つまり、売却を確定しておかないと計画に着手することは出来ないが、一方、「とわ」の開発には「童夢カーボン・マジック」の技術が欠かせないから、売却した上で引き渡す以前に「とわ」の開発を終了しておかなくてはならないという綱渡りのような計画だった。
しかし、その、家財道具を売り払ってラスベガスに勝負に行くというような無茶な戦略も、私の最後を飾るにふさわしい大博打だと思っていたくらい、この頃は、根拠のない自信に溢れていたものだ。


「童夢カーボン・マジックの売却」
大企業への「童夢カーボン・マジック」の売却は順調に進み2013年3月18日には童夢からのプレス・リリースにより正式に発表されたが、実は、この裏で恐るべき悪だくみが画策されていた。
(要約)私は、70の声を聞く3年間で完全にリタイアしようと思っていますが、では、なぜ?あと3年間かと言うと、私には、どうしてもやりたい事がもう一つだけ残っているからです。
しかし、私が最後にどうしてもやっておきたいことはルマン24時間レースではありません。
中略
今までの資金源であった童夢カーボン・マジックを売却し、その売却益を投入して私の最後のお遊びに使い果たそうと考えた訳です。
中略
私はこの3年間に思いっきり自由な車造りを楽しんで、「あー、楽しい人生だった」と満たされた気持ちでリタイアする予定ですのであしからず」

当時、ネットで話題になった。
「童夢が大手企業に童夢カーボン・マジック社売却」 しかし、すごいのは童夢からのプレス・リリースで、経済ニュースで終らせない林氏のぶっ飛びコメントが話題に!
ぶっちゃけ過ぎだが、カッコいい:大手企業の童夢カーボン・マジック買収についての童夢のプレス・リリース、童夢オーナー「売却益でクルマ造りを楽しむ」
童夢、子会社の童夢カーボン・マジックを大手企業に売却。新車開発費へ。いやでも期待はふくらむ!
「私の最後のお遊びに使い果たそうと」 童夢オーナー、グループ会社売却理由をあまりに率直につづる。
当時、ネット上にこのようなコメントがあふれていて大変に話題になっていたし、出来てくるであろう新型スポーツカーへの期待も膨らんでいた。


「暗転」
たまたま、同時並行的に我々夫婦は離婚に向かっていたが、私は塚本家とは半世紀にもあまる付き合いだったし、その内の21年間は洋子と夫婦だったから、当然、親戚でもあった訳であり、その人となりも内情も熟知していたから、事、金銭面に関しては完全に信頼しきっていた。
不幸にも離別は避けられなくなっていたが、それでも私は完全に洋子を信頼していたし、例え洋子とは別れても子供は子供だから、洋子を渡し舟にした相続対策は継続するつもりだった。
だから、離婚に至る以前から、不動産などに関しては相続対策の続行を示唆していた、つまり、洋子の名義のままで良いと伝えていたし、その他の洋子の名義を借りていた私の資産も、一旦、今回の「遺作プロジェクト」に使うにしろ、成功した暁には子供に還元される道筋を考えていた。
何の躊躇も心配もなく粛々と「遺作プロジェクト」の具体化を進めつつ、「童夢カーボン・マジック」のM&Aに関しても話し合いを続けていた頃、私は家を出て別居に至っていたが、別居後も、それまでの家にお客を呼んで洋子とパーティを共催するなど、ずるずるとした関係が続いていた。
さて、我々夫婦はどうなるんだろうと思っていた矢先、まだ二人で何の話し合いもしていないのに、洋子が突然に弁護士の投入を言い出し、同時に塚本からも断絶と出入り禁止が申し渡されたが、前述したように、その弁護士たるや、ワコールの代表顧問弁護士を筆頭にした7名の弁護士団という大仰な体制だったから、当時は、それが何を意味するのかも解らずに、ただただ驚いたものだ。
それから、全てを嘘で固めた竹村葉子弁護士の理不尽な主張が始まり、これらの相続対策の為に洋子の名義を借りていた私の資産の内、不動産に関して「洋子の名義だから洋子のもの」という理由で所有権の主張を言い出したが、一方、洋子の名義を借りていた「童夢」や「童夢カーボン・マジック」の株に関しては返却を示唆していた。
しかし、これはおかしな話で、前述したように、これらの不動産に関しては相続対策の継続を通知していたから既決事項であり、わざわざ弁護士を投入する必要は無かったし、それだけが目的なら、洋子と私が話をすれば即時に解決する話だった。
ちょっと訳の解らない展開に戸惑っていたから、とにかく真意を質すべく、私が、直接、竹村弁護士と面談することにしたが、そこで竹村弁護士の口から出てきたのが、「童夢本社の土地(米原)は童夢にお金が無かったから買って貸してあげていたのであり洋子の物」という1000%も有り得ない奇想天外な言い掛かりだったから、私は激怒して席を蹴って引き揚げてしまった。
レース界の方ならご存じだと思うが、その米原の童夢本社は、22,500㎡の土地に建設された延床面積2.100㎡の社屋の中に最新鋭の設備が整っており、社屋と設備だけで10億円を投じている。
童夢は、その10億円を銀行から借り入れていたが、ご存じのように、社屋や設備は償却期間があり、特に開発設備は3~5年と短いから担保価値としてはゼロに近い。それでも銀行は代表者の個人保証も取らず、形だけの担保設定で貸し出しているほど信用されていたし、実際、数年後には完済して無借金になっている。
なのに洋子は、裁判になってから「童夢に与信があれば童夢が借りればよく・・」とか「童夢が借り入れできなかった」とか「童夢に担保力及び信用が無かった」などと、全く経営には参画しておらず童夢の財務内容など知る由も無いのに、自らの虚偽の主張の正当性を補強するために虚偽に虚偽を重ねているが、そんな好条件で借り入れしている状況下、担保価値の高い土地を担保にしても銀行が貸さないという訳も無く、銀行から見れば、土地だけを洋子の会社で買うという話の方がイレギュラーであり、相続対策も理解していただろうし社主の我儘に忖度もしていただろう。
いずれにしても、有り得ない大嘘であり、当時の書類を調べれば虚偽であることは鮮明に浮かび上がってくる。

何の為のちゃぶ台返しか訳の解らないまま激怒していた竹村弁護士との面談の数日後に、まだ離婚について洋子と一言も話をしないまま、洋子の署名捺印済みの離婚届が岡本先生に渡され離婚が確定的となってしまった。
当時は、私と洋子が話をしてスムーズに解決してしまっては仕事にならない竹村弁護士の営業戦略かとも考えたが、この強欲な守銭奴どもの策略は、そんな生易しい話では無かった。


「主な争点と被害額の一覧」
話の全容が掴めないと思うので、途中ではあるが、この事件にまつわる出来事の概略と被害額について述べておこう。「下鴨居宅の土地」を除き、全て洋子と岡本先生と私との合意により実施していた息子への相続対策であり、洋子に一切の負担をかけずに私の資産を洋子の名義に変えていたものだ。
洋子から息子への資産の移転方法については、別途、塚本家の相続対策として岡本先生が指導していた。
このあたりも「ブラジャーVSレーシングカー」に詳しいので要旨だけを説明しておく。
米原の童夢本社土地相続対策を目的に洋子の名義として残す為、一旦、洋子の会社が2億円で購入し、既に童夢から清算資金として1億8000万円を支払っており、今回、東レに2億5000万円で売却したから、洋子にはトータル2億3000万円の粗利が転がり込んだ事になる。洋子は、この土地を「童夢にお金が無かったから買って貸してあげた」との有り得ない主張を始めて「私の物」として取り込み、2億3000万円の粗利を得ている。
宝ヶ池旧童夢本社不動産これは私が保存を目的に所有していたが、米原と同様、一旦、洋子の会社が1億円で購入し、既に童夢等から清算資金として9170万円を支払っているが、最近、第三者に推定2億円で売り飛ばしてしまったから、洋子には2億円の粗利があった事になる。洋子は、「必要ないのに無理に買わされた」という理由で「私の物」と主張し、この2億円の粗利を取り込んでいる。
童夢カーボン・マジック株洋子に一切の負担をかけない形で相続対策として名義だけを借りていたが、M&Aの売却益の3億円の全てを「もらったものであり私の物」と主張して取り込んでいる。洋子は3億円の粗利を得ている。
童夢株童夢の25%の株式を、相続対策を目的として洋子に一切の負担をかけないで名義だけを借りていたが、これも「もらったものであり私の物」と主張して取り込んでいる。洋子は童夢の25%の株も私の物と主張しているが、童夢の株主名簿では原状復帰している。
下鴨居宅の土地これは相続対策とは異なるが、紛れもない私の所有物にも関わらず、理不尽極まりない屁理屈を弄して相場の40%にまで買いたたく手口は悪辣すぎて身の毛もよだつ。結局、敗訴したことにより、強制的に相場より4000万円以上も安く買い取られている。


「被害額の一覧表」
金の流れを一覧にすると以下のようになるが、ご覧になれば解るように、洋子が支出した3億円は不動産の購入費用であり、同時に等価の不動産を入手しているのだから、貸付でも投資でも贈与でもない単なる不動産取引である。
その不動産の購入費用に関しても既に童夢が殆どを清算しているし、株に関しては、洋子は1銭も負担していないから、一方的に私や童夢から洋子に金が流れていたという事実はお解りいただけると思うし、これらの金の流れは各種帳票類からも明白であり、洋子も認めざるを得ないが、洋子は「何回もお金を貸したが返していないのでくれたと思った」という有り得ない理由をでっち上げて「もらった」事にして懐に入れてしまっている。
それでも、相手がワコール創業家と言うお家柄だけに、世間では私の方が洋子の金を取りに行っていると噂されており、被害者である私の方が村八分のように肩身の狭い思いをして、加害者である塚本一族は大手を振って闊歩しているのだから、何とも納得しがたい現実に戸惑うばかりだ。
洋子が支出した金額
貸付でも投資でも贈与でもなく、支出と同時に等価の不動産を取得して資産となっているから全くリスクの無い不動産の購入に過ぎない。
洋子が懐に入れた金額
米原の土地の購入費用/2億円童夢からの米原の土地の清算費用/1.8億円
東レへの米原の土地の売却代金/2.5億円
宝ヶ池の不動産の購入費用/1億円童夢からの宝ヶ池の不動産の清算費用/1億円
宝ヶ池の不動産の売却代金/2億円
株の取得/0円童夢カーボン・マジック株売却益/2億円
童夢株/25%
計  /3億円計  /10,3億+株の25%
洋子の得た10,3億円+25%から洋子が支出した3億円を引かなくてはならないが、トータルすれば洋子が取り込んで離さない現金や所有権を主張している金額は10億円を超える。また、洋子の名義だったから洋子が租税公課を負担しているケースもあり、洋子の実入りと私の被害額は一致しないが、私の被害額としては表のとおりだ。


「想像を絶する展開」
これから、こんな大型詐欺事件に発展していく訳だが、当初は、とにかく洋子を信用していたから、とりあえず、この法匪のような弁護士を排除しなくては大変な事になると思った私は、これまでの塚本家と我々夫婦の全ての相続対策の指導者であった岡本先生に仲介をお願いすることを提案し、洋子も、これ以上、岡本先生をないがしろにする訳にもいかず了承した。
私はこれで解決したと思ったが、何と、それから一年、洋子が岡本先生との面談から逃げ回り、全く何の話し合いも進まなくなってしまった。
洋子の言い分は「岡本先生が林氏に親密な関係の女性がいた(虚偽)ことを教えてくれなかったので信頼をなくして連絡を拒否していた」という奇天烈な理由だったが、いつもならシャープな動きを見せる岡本先生も「洋子ちゃんが電話に出てくれない」と言うだけで、私がしつこく交渉を督促しても暖簾に腕押し状態が続いていたから、何とも訳の解らない隔靴掻痒な一年となった。
ただし、訳が解らなかったのは私だけで、それが、計算されつくした私から預かっていた資産の総取り作戦だったことは戦いも後半になって気が付くことになる。

そんな岡本先生による仲介が漂流している最中の2013年4月に「童夢カーボン・マジック」のM&Aがクロージングとなり、洋子名義の童夢カーボン・マジックの株と米原の土地の売却益の約6億円が洋子の口座に振り込まれたが、当然、その売却益は返却されると思っていたところ、突然に牙をむき出しにした洋子は「株も最初から私の物だと主張している」と前言を翻して6億円を離さなくなってしまった。
つまり、もともとから株も取り込むことを計画していた洋子だが、初期の時点で「株も私のもの」と言いだしたら、私がM&Aを中止してしまうことは確実だったし、さすがに岡本先生も黙っていなかっただろうから、この時点で洋子は「株も私の物」とは言いだす訳にはいかなかった。
仕方なく、「不動産は私の物だけど株は返す」としか言いようが無かった訳だが、しかし、これで話し合いが成立してしまったら預かっていた株を返さなくてはならなくなる。
何とか、2ヶ月後 (遅れて4月になったが) に予定されていたM&Aのクロージングまで和解を引っ張れれば、株の売却益は自動的に名義人の洋子の口座に振り込まれるので、そうなれば取り込んで返さなければ良いだけだから、どうしても、それまで解決を引きのばす必要があった。
そのための小芝居として、「童夢にお金が無かったから買って貸してあげた」という有り得ない虚偽の主張を始めて事を荒立てた訳だが、私はまんまとのせられて激怒してしまい、当時、仲介をお願いしていた岡本先生に不動産も取り戻すと告げ紛争が勃発した。
しかし洋子は、M&Aのクロージングまで和解する訳にはいかないから岡本先生と話は出来なかったし、「童夢にお金が無かったから買って貸してあげた」と言った以上、それを虚偽と知る岡本先生に合わせる顔も無いから、いずれにしても逃げ回るしかなかった。
その逃げ回っていた訳を裁判では、「岡本先生が林氏に親密な関係の女性がいた(虚偽)ことを教えてくれなかったので信頼をなくして連絡を拒否していた」と奇天烈な主張しているが、他人の財布の中身を熟知している岡本先生が秘密を洩らしたら信頼を無くすことがあっても、秘密を洩らさなかったから信頼を無くすというのは、いかにも牽強付会な戯言であり失笑を禁じ得ない。
洋子と私が正式に仲介を依頼した岡本先生にも私にも一言も告げずに、1年間、ただただ逃げ回った挙句の理由が「信頼をなくして連絡を拒否していた」だから、どう考えても、現実社会でおこっている出来事と思えないほどの安直で支離滅裂でおざなりで嘘まみれのまやかしだった。
その後、「株も私の物」と言い出してからは、ますます岡本先生に合わせる顔も無く、結局、最初から最後まで岡本先生の仲介からは、ひたすら逃げ回るしか無かった訳だ。
ちなみに、岡本先生は事実(洋子の主張が全て虚偽であること)を「陳述書」で証言してくれているが、裁判所は完全に無視している。

当初の交渉記録に「株は返す」と明記されているし、その後の弁護士間での交渉時には、「確かに株は返すと言っていたが、林氏に親密交際していた女性がいる(虚偽)のを知って激怒しているから気が変わった」との陳腐な理由で「株も洋子の物」と言い出しているし、その後は「株は最初から洋子の物だと主張している」と主張を一変させているから、つまり、「株は返す」→「気が変わった」→「最初から主張している」と三段階で変遷している訳で、自らによる明確な証拠を残しながらの嘘に嘘を重ねるごり押しは正気の沙汰とは思えない。

その頃は何も解っていなかったから、洋子が法匪のような弁護士に踊らされて血迷っているくらいに思っていたのに、実は、踊らされていたのは私の方なんだから何とも間抜けな話だが、当時、こんな裏までは知る由が無かったし、実は、まだその裏の裏まで仕組まれていた悪辣な詐欺事件だとは夢にも思っていなかった。


「裏の裏」
さすが詐欺師集団、人を手玉に取る術には長けているが、そうして考えると、もっともっと奥深い闇も見えてくる。
もともと我々夫婦は、結婚2年目の息子が生まれて間もなくから洋子の要望により仮面夫婦になっていたし、家庭内別居状態だったから、ある意味で夫婦を演じてきたような関係だったが、それでも当初は、同居する仲良しパートナーというような、それなりに問題の無い状態が続いていた。
しかし、後半の10年くらい、私に対する洋子の態度が目立って横柄で反抗的になってきていたから、ずっと、そのような態度を改善するようにお願いし、不満があるのならはっきりと言ってほしいと問いかけ、洋子からは「不満は無い、あれば言う」とか「甲状腺の病気でしょうがない」というようなあやふやな返事が繰り返され、結婚生活を続けたいのか止めたいのか、好きなのか嫌いなのか、何か不満があるのか無いのか、何も解らないまま何も解決しないまま、ずるずると問題は先送りされるという、何とも中途半端な時間だけが過ぎていた。
私は結婚も3回目だったし、もう絶対に別れないと決心しての結婚だったから限界をはるかに超えた我慢を重ねて耐え忍んでいたものの、詳しい説明ははしょるが、2012年になって決着を付けざるを得ない状況になって、
結局、別居→離婚に至ることになる。
(公開していないが、このあたりの手紙による夫婦間のやり取りの記録はあるので事実関係の証明は出来る。
しかし、「本当か?」と突っ込まれるのを恐れて補足してしまうから文章が長くなる。直らない。)

当時は、既に岡本先生の指導により、順次、私の資産が洋子の名義に書き換えられていたから、年を追うごとに、見かけ上の洋子の資産は増えていっていたし、また、本来は洋子が銀行への返済に充てるべき米原と宝ヶ池の清算資金である250万円が、毎月、童夢から振り込まれるようになっていた。
つまり洋子は、黙って座っているだけで月々250万円が振り込まれてくるし、順次、億単位の資産が洋子の名義に変わっていくし、宝ヶ池の不動産は会社の事務所やカフェやエステサロンに使いたい放題の状況が続いていた訳だ。
一方、洋子の会社は、どう考えても売り上げが立つような仕事をしていないのにかかわらず長年に亘って存続を続ける不思議な会社だったが、後になって解ったところによると、洋子は最初から、この童夢からの清算資金を会社の経費に流用しており、一切、返済に回していなかった。
つまり、使い込みとか横領の類の話であり、これでは、土地は所有したが等価の借金も残ってしまい、息子に土地を残すどころか借金も残す事になり、相続対策どころか洋子にこずかいを貢いでいただけの愚かな行為になっていた訳だ。

そのような実情を露も知らなかった私は、何の疑いも無く息子へ渡るものだと思い込んで相続対策の流れに従っていたが、2012年頃になって、私が「童夢カーボン・マジック」の売却と「遺作プロジェクト」の実施を言い出したものだから、突然、そんな洋子の左うちわと甘い夢は突然に現実に引き戻される事になる。
月250万円のおこずかいも無くなるし、今までに使い込んでしまった清算資金の穴埋めも難しいし、すっかりと「私の物」のつもりであった預かっていた資産を返さなくてはならない可能性が出て来たものだから、青天の霹靂だっただろう。
しかし、現実問題として、早いテンポで童夢カーボン・マジックのM&Aの話が具体化しつつあったから、洋子としては対応を余儀なくされたものの、今更の清算は難しいくらい私物化が進んでいたから有効な解決策は無かった。ここからは残念ながら推測になるが、大きくは外れていないだろう。
今までなら、真っ先に岡本先生に相談するところだが、中立的な立場から相続対策を指導してきた岡本先生に、その相続対策を利用して資金を流用してきた洋子が解決策を相談できる訳も無く、窮した洋子が兄に助けを求めて登場したのが竹村弁護士という構図だろう。
その後、洋子と竹村弁護士がどのように絡まり合って、このような大胆で邪悪な収奪計画を練り上げていったのかは知らないが、結果的に、最も邪魔な存在である実情を熟知した岡本先生を真っ先に排除した上での総取り計画が構築されていった。

このような状況は、今になってこそ解ることだが、当時は全く何も解っていなかった。あの、抜きも差しもならない長らくに亘る思いっきり陰鬱な夫婦関係が、単なる夫婦間の軋轢とか愛憎問題では無く、洋子にとっては、こずかい稼ぎと資産の移転を待つ我慢の時だったとしたら、ひたすら理不尽な環境を耐え忍んできた私はあまりに浮かばれないが、そう考えると全てに辻褄が合うから怖い。
初期の段階で最も疑問に感じていた、まだ離婚について洋子と一言も話をしていない段階で唐突に出てきた署名捺印済みの離婚届の謎も、突然に弁護士を投入してきた謎も、竹村弁護士の訳の解らないちゃぶ台返しも、夫婦のままで離婚の調停などにもつれ込んだ場合の真面な決着を避けるため、また、常識的な中を取るような和解を避けるための茶番劇だった。

それにしても、もし私が、「遺作プロジェクト」とか資産の売却とか言い出さずに、そのままのペースで相続対策を続けていたとしたら、私が引退を予告していた2015年あたりには、もっと多くの資産が洋子の名義になっていたはずだ。
もし、その時に、今回と同様に家を追い出され、今回と同様に「もらった物であり全て私の物」と言い出し、今回と同様に裁判で負けたとしたら、私はほとんどの資産を収奪されて、家も建てられなかっただろうし、収入の道も途絶えていただろうし、年金を当てにしながらの悲惨な老後を余儀なくされていただろう。ある意味、「遺作プロジェクト」が犠牲になって私をホームレスから救ってくれたとも言える訳だ。


「遺作プロジェクトの崩壊」
それにしても「遺作プロジェクト」は、売却していく施設を使って開発を行うという綱渡りプロジェクトだったから、本質的に洋子ともめている場合ではなかったし、ぎりぎりの予算で広げ切った大風呂敷は予算の何割かを洋子に持っていかれては進めることもかなわない。
そのタイムリミットが迫る2013年末に、堪りかねた私は岡本先生の仲介を諦めて今まで童夢の法律顧問をしていたK弁護士に交渉を依頼した。

私は、いくつも大きな過ちを犯しているが、この弁護士への委任も大きな過ちとなった。洋子は岡本先生から逃げ回っていたが、一方、今までの家の土地の半分は私の所有だったから、その土地を私から買い取っておかないと売却も出来ない。
噂では、早々と買い手を見つけていたようだから、それが洋子にとっては唯一のネックとなっていたし、また、私から見れば唯一のカードのようなものだった。だから、遅かれ早かれ話し合いは避けられなかったが、株の売却益を取り込んでしまった以上、岡本先生に合わせる顔も無いというジレンマに陥っていたところに、岡本先生が外れて若い弁護士に変わったのだから、洋子側は飛び上がって喜んだことだろう。
超ベテランの大物である竹村弁護士にとってK弁護士など赤子の手を捩じるほどに御し易い存在だったようで、逃げ回っていた1年間が嘘のように簡単に交渉のテーブルに出てきた。しかし、その時の主張は想像を絶するほど強欲で嘘八百で支離滅裂ながら、全て元ネタがあって、それをひっくり返して何十倍にも増幅させたような嘘の捏造の仕方を見るに、竹村弁護士の独走と言うよりは洋子の悪意が透けて見えてきて、それまで、洋子の気持ちを図りかねて、闘争心や憎悪の向かうべき方向もあやふやだったのに、その時から、はっきりと敵の顔が見えるようになってきた。
「遺作プロジェクト」のタイムリミットが迫る中、私は焦っていたから、大幅に妥協した和解案を提示して早期の解決を目指すとともにプロジェクトの内容を見直して予算削減も図りつつ解決を目指したが、K弁護士と竹村弁護士の何回かの面談のかいも無く、ついに、2014年3月12日に最終的な和解交渉が破談となり、「遺作プロジェクト」は資金的にも時間的にも物理的にも実施不可能となり崩壊した。

「訴訟提起へ」
何ともはや想像を絶する展開が続いていたが、このままでは、預けてあった私の資産を総取りされたまま、しかも世間の噂では、私が洋子の資産を取りに行って弁護士に追い払われたことになっているから、泣き寝入りは出来なかった。
ここでまた私は、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。技術立国と思い込んでいた我が国はインバウンド頼りの観光立国に落ちぶれているが、それでも近代国家の端くれにはしがみ付いていると思っていたし、司法制度に関しては、少なくとも世界でもトップレベルにあると信じ込んでいたから、私は、洋子の目に余る理不尽な振る舞いにお灸をすえるつもりで訴訟提起を決意した。
それまでの交渉を依頼していたk弁護士は、洋子側の竹村弁護士の嘘まみれの詐欺師のような手口を相手にするには戦闘力が不足していると思えたから、友達の紹介でN弁護士に訴訟提起を依頼したが、この人選も大きな過ちとなった。
結論を言えば、洋子の証拠も証人もいない嘘八百が法廷でまかり通るばかりでは無く、私の全ての主張も証人の証言も一顧だにもされずに無視されたまま、訴訟提起した5件の全てが敗訴となり、私には一銭も返らないまま結審してしまった。
裁判所が詐欺師に手を貸して犯罪を合法化したような信じがたい結果となった訳だが、驚くべきは、裁判の前後を通じて、友達からも弁護士からも、「裁判はうまい嘘を付いた者勝ち」とか「判決は裁判官の心証しだい」とか「結果は弁護士次第」とか「ヤメ検じゃないと勝てない」とか「まともに戦ってはダメ」等の、まるで裁判がコンゲームであるかのような話が雨や霰のように降り注ぎ、ついぞ誰からも、「正義を行使し真実を探求する」等という青臭いセリフは聞こえてこなかった事だ。
しかし、結果を見れば、それらの全ての意見が間違っていなかったことは明らかだから、そもそも、私が「正義と真実」を求めて司法に頼ったこと自体が大きな過ちだったし、水掛け論を避けるために、弁護士に「例え真実であっても証拠の示せない事実は主張するな」と縛りをかけていたくらい真実に拘っていた事も青臭いだけの机上の空論に過ぎず、非現実的であり裁判の実態を知らない浅はかな考えだった事を思い知らされる。

ここからの顛末は、おそらく皆様の想像をはるかに超えた魑魅魍魎が跋扈するお化け屋敷を彷徨うようなホラーな話が展開するが、話が長くなるし、拙著「ブラジャーVSレーシングカー」にて詳しく説明しているので重複は避けたいから、是非、拙著「ブラジャーVSレーシングカー」を読んでいただきたい。


「奪われた夢と希望と時間と財産」
人生に疲れて悠々自適の隠居生活を目指せば良かったものを、魔がさしたのだろうか、悪魔が横に居たからだろうか、「遺作プロジェクト」という最後の夢を実現するために、その高収益を生み出していた会社や風洞設備を売却したことにより、売却益の半分弱を盗られ「遺作プロジェクト」は崩壊し、引退前後の6年間を洋子との戦いに消耗し、最後に住もうと思っていた童夢発祥の地である宝ヶ池の不動産を売り払われ、洋子側の誹謗中傷が独り歩きしての風評被害に泣き、ワコール忖度族が去って友達も激減して寂しい老後となってしまい、私の晩年に大輪の花が咲くどころか急に立ち枯れてしまったような悲惨な結果となってしまった。
日本の司法の体たらくには絶望しかなかったし、信じ切っていた人たちによる想像を絶する強欲で理不尽な振る舞いには戸惑いしか無かったし、もう、取り返しのつかないほど全てが崩壊していたが、私は諦めるどころか、ますます怒りのボルテージは上昇一方でレッドゾーンを超えていたから、相変わらず書斎に閉じこもって参考文献や資料の山との格闘を続けていた。

しかし、当初こそ怒り心頭に発していたから洋子との戦いにのめり込んでいたが、それも3年も経つと、あと何年生きられるかも分からない老人が朝から晩まで法律関係の書類と格闘しているのも取り返しのつかない無駄に思えてきて不安が募ってくる。現役時代にあれだけのレーシングカーを作り続けてきた私が、引退後も引き続き「遺作プロジェクト」でスポーツカーを開発することになっていたのに、急に書斎に閉じこもって訳の解らない法律関係の資料に埋もれているのだから心中はお察しいただきたいが、かと言って、裁判は意外にも押され気味に推移していたから片手間で済む状況では無かった。

そんな悶々とした日々を送っていた頃、さすがに、これで死んでしまったら洒落にもならないと思い始めていたところに、車作りたい病の青年と出会った。私は、その青年の話を聞きながら、私が「カラス」を作るチャンスを作ってくれた浮谷東次郎や、その後にレーシングカーを作るチャンスを与えてくれた小寺氏と矢吹さんの事や、鈴鹿で金もなく工場も追い出されて路頭に迷っていた時に知り合いの材木置き場を手配してくれた鈴鹿サーキットの江端さんの事などを思い出しながら、この青年にチャンスを与えなくてはならないと思い始めていた。
後進を育てるという意義もあったが、私には裁判を戦いながらクルマを作れるという打算もあったし、また、クルマを作り始めたら、さすがに裁判のことは忘れてクルマ作りに没頭するはずだったから、これをきっかけに肥溜から這い上がれるとの思いもあったのは否めない。


「K4 SUPER SPORT PROJECT」
「遺作プロジェクト」において開発を計画していた「とわ」は、かなり先進的な技術を投入する予定だったから潤沢な開発費が必要だったし、また、「童夢-零」の柳の下のどじょうを狙っていたから打ち上げ花火的なインパクトが求められていたが、もう予算は無いし、それに本音を言えば、基本的に私は何百馬力とかの超弩級スーパーカーには全く興味が無い。というよりも、所有するのも運転するのも気恥ずかしいから嫌だ。
隠居老人となって、ほぼ趣味でクルマを作るとしたら、どんなクルマを作りたいかと言えば、自らが運転してワインディングロードをぶっ飛ばせるというイメージの「ライトウェイト・スポーツカー」だ。


「K4SSもお蔵入り」
気分転換と言うと軽く聞こえるが、余命3年と宣言されたのに朝から晩までジムで体を鍛えているような、しんどい割には空疎な時間に耐えられなくなってきていたから、動機は現実逃避的なところも有るものの、しばらく断っていた私にとっての麻薬に救いを求めたようなものだった。
「とわ」ほどでないにしろ、それなりの私財を投入して基礎的な開発を進めていたが、私自身、クルマ作りに熱中して洋子との戦いがなおざりになってしまうのではないかと危惧していたのが嘘のように、「K4SS」関係の書類は裁判書類の下に埋もれていたし、私は相変わらず洋子との戦いから抜け出せずに悶々とした日々を過ごしていた。
現実、車作りたい病の青年の工場では基礎的な開発が進行していたし安全対策の実験も佳境に入っていたのに、次々と送られてくる裁判書類に眼を通すたびにキラウエア火山のように大噴火を繰り返し、気が付けば洋子の嘘を暴く作業にのめり込んでいて、開発現場への適切な指示が疎かになっていた。
私も成すべきことが出来ていなかったが、その、車作りたい病の青年も成すべきことが解っていなかったから、時間と資金だけを浪費する空回りのように時間が過ぎてゆき、もともと、本格的な設計段階に入ったら童夢にトスすることになっていたのに、繋ぐはずのバトンがエアーバトンのようなものだったからリレーが途切れてしまった。
このあたりの事情については想像に任せるとして、強引にクルマ造りを進めるつもりなら、たいした問題では無かったはずだが、裁判にかまけて気持ちに全く余裕のなかった私は、事もあろうか、2017年末になって、洋子との戦いに専念するためにクルマ造りを捨ててしまった。


「[ブラジャーVSレーシングカー]の執筆」
今から思えば、あそこまで準備が進んでいた「K4SS」開発計画を、よくぞ、いとも簡単に捨てられたものだと思うが、信じられないことに裁判で敗訴が続き、下鴨の土地を安く取られ、奪回に拘り続けていた宝ヶ池の不動産を売り払われ、収奪された株の売却益も全て取り込まれてしまっていたから、私の怒りは限界に達していたし、何よりも、裁判での洋子有利の情報は、そのまま私が不当な要求をしていたように世間に拡散されていたから、ますます誤解は広がり、ますます私は孤立していった。
こんな守銭奴の詐欺師どもが巷を闊歩し、被害者である私が後ろ指をさされるのだから信じられないが、何としても真実を知らしめないと、歯止めなく私は「資産家の金を取りに行った元夫」とか「洋子さんにたくさんお金を借りて返していないらしい」とか「生活費なども全く負担していなかったらしい」等という私の名誉を棄損する有り得ない虚偽の噂が拡散し続けるから、ますます、深夜まで書斎に閉じこもって「ブラジャーVSレーシングカー」の執筆に没頭する毎日が続いていた。
私は当初から、洋子側の嘘八百を暴くのに私がいい加減な主張をしていては嘘つき大会になってしまうから、あくまでも実証主義の立場から事実関係を徹底的に調べあげながら書き進めていったが、気が付けば原稿量は膨大になっており、下手したら「龍馬がいく」を超える勢いだった。
いくらなんでも長すぎたので、それから一冊に収まるように間引きを始めたが、あれも説明しておかないと解ってもらえないだろうとか、多分、ここが誤解されるから背景も説明しておかなくてはならないとか、なかなか減量が捗らず、それから又、数か月を費やした2018年も押し詰まった頃に、やっと校了し、2019年の1月に出版に漕ぎつけた。ちょっと自慢になるが時間が無かったので校正まで自分で行い、プロの手は借りていない。


「地獄で仏」
こうして私は、膨大な時間を投じて、ほとんどの洋子の嘘を証拠をもって証明していったし、裁判で全てが嘘の主張が認められる事は有り得ないと思い込んでいたが、それが大きな間違いだった。
日本の裁判では、嘘はつき放題だったし、明らかな嘘も矛盾も質されることも無かったし、いくら証拠を示して反論しても取り合ってもらえなかった上、私側の主張も証拠も証人の証言も見事に無視され、洋子の嘘八百が全て認められるという、あまりにも一方的で偏向的な裁判所の判断には絶望しか無かった。

私は、洋子と別居してからの一年弱、学生の下宿並みの広さのマンションで暮らしていたが、縦に10歩、横に2歩で壁に当たるような小部屋だったから身動きも取れない窮屈な日々を過ごしていたし、ガレージも無かったから車に乗ることもままならなかったし、大勢いた友達も潮が引くように消えていって誰からも連絡がなくなるような孤独な環境だったし、洋子側の弁護士からは信じられないような理不尽な要求が雨あられと降り注いでいたし、世間では私の方に非があるかの如くの噂であふれていた。
当時は、私を責める世間の噂にも慣れていなかったし、敵と味方の区別もつかなかったし、行って良い場所と迷惑がられる場所の区別も定かでなかったし、料理は得意ながら、キッチンは狭く道具も乏しく、ろくなものを食えない状況が続いていた上、全てを投げ打って賭けていた「遺作プロジェクト」も崩壊しつつあった頃だから、かなり精神的にはタフな方だと思っていた私も、さすがに心が病みつつあった。

ここでちょっと、状況が理解できない方のために解説しておくが、洋子は京都を本拠とする著名な一部上場企業ワコールの創業家の娘であり、京都では著名な一家だから、その会社の従業員たちや洋子姉妹たちが牛耳る巨大な有閑マダムたちの団体や商工会議所などの経済団体などは塚本家を擁護する立場にあるだろうし、知り合いの人たちや飲食店にしても、真っ向から対立しているワコール軍団か私一人のどちらを取ると言われれば、当然、私を捨てることになるだろう。つまり、四面楚歌という状況だった。

そんな、閉塞感に気も狂いそうな日々を送っていた頃の唯一の救いが、時々、訪ねてきては食事を共にする睦美(当時、私66、睦美36)の存在だった。この辺りの私の言い分を説明し始めると、また、膨大な文字数を費やしてしまうので割愛するが、当時の睦美は、私の数多いガールフレンドの1人に過ぎなかった。
よく、風邪で高熱を出して寝込んでいる時に、かいがいしく介抱してくれた女性と結婚してしまうというバターンがあるが、私の場合、正にその典型のように、陸の孤島でハリケーンに襲われているような私にとっては、唯一の安らぎになっていたし、いつしか、離したくない存在になっていた。
ただし、二十歳代の1回目の離婚は、まだ青かった私の未熟さが原因だったから今でも申し訳なかったと思っているが、2回目は社員と駆け落ちされたし、3回目は牙をむいて金を盗りに来ているのだから、もう結婚はこりごりだと思っていた私は、二度と、いや四度と結婚する気はなかったので、睦美には、その旨を告げていたし睦美も了承しての付き合いが始まっていた。
まあ、かなり私が病んだ状態での藁をもすがる気持ちも否定はしないが、それだけでは無く、高校卒業後は自力で大学に進学し奨学金を得てアメリカの大学に留学して音楽療法を学び、アメリカでインターンをこなしてから京大医学部の研究室に所属して博士号を取得するなど、強い意思をもって一筋に突き進むタイプの人であり大変な努力家だったから、女性としてより以前に人として認めていた事も確かだ。
そんな訳で、その後、いわゆる内縁関係のような付き合いに発展していった。しかし、これも長くなるので理由の説明は割愛するが、30歳も年上の私がお先に失礼することになった時、もし睦美と内縁関係のままだったら、残りの私の資産の全てを洋子の子供となって私にTwitterで「生き恥を晒すな」とまで言ってくる息子に持っていかれ泥棒に追い銭になってしまい、睦美には何も残せなくなる。
どうしても阻止しておかなくてはならないし、睦美に対しても無責任だから、残り少ない友達をハワイに招待して「内妻披露宴」を開催しようという計画を急きょ変更して、二度と結婚なんかするもんか!という決意も虚しく、4度目の結婚に踏み切ってしまったという訳だ。
この後の話になるが、睦美と結婚してしまうと、どうしても相続が問題となってくるが、税理士と相談しても妙案がある訳も無く、結局、洋子の時と全く変わらない相続対策を行うしか無く、これほど痛い目に会いながら全く同じ相続対策を進めている。つまり、睦美とも別れることになり、その時、睦美が、洋子と同じように「私の名義だから私の物」と言い出し、今回のように裁判で負けたら、私は、また全てを取られてしまう事になる訳だ。


「新たなる災難」
それにしても、これだけの地獄のどん底に堕ちている私に、これ以上の災難が用意されていたなんて考えもしなかったが、その予兆は結婚当初から露わになってきていた。ただ、あくまでも願望だと思っていたし、非現実的な話だと聞き流していたから、私は、リタイア後に計画していた睦美と二人での南ヨーロッパを巡るグルメ旅の資料集めに余念が無かった。
しかし、現実には洋子との戦いに明け暮れていたし、南ヨーロッパどころではなくなっていたから、睦美は旅に出られそうもない私を見ていて可能性ありと踏んだのか、ある時期より、どうしても子供が欲しいと言い出した。
当時、私は70歳直前だったから、正直、御免こうむりたいと思っていたし拒否もしていたが、睦美は、まだ40歳未満であり、私の死んだ後、かなりの年数を独りで生きる事になる。だから睦美の気持ちも解るし、何と言っても子供が大好きだから、南ヨーロッパ旅行も霧消しつつある状況下、頑なに拒否する理由も見つけにくくなっていた。

ここで全ての皆様から、お前にそんな能力が有るのか?という素朴な疑問が湧いてくると思うが、詳しい説明は端折るとして、当然、人工授精による不妊治療だよりの話だ。
睦美は医学博士の本領を発揮して、あらゆる資料と病院を調べ尽くし医者を選んで不妊治療に通い、見切りを付けたら次の病院に移り、3日を開けずに各地の病院に通い、そんな事を何回も何回も繰り返している内に2年半が過ぎていた。
あまりの熱心さに、どうしても子供が欲しい気持ちは痛いほど伝わってくるが、その間、睦美は40の大台を超えていたし私は古希を迎えていたから、益々状況は悪化の一途をたどっていたし、同じことを繰り返しても同じ結果しか得られないことは見えてきていた。私は、だんだん、こんなに努力しても報われなかった時の睦美の落胆を考えると怖くなってきて、どこかでブレーキを踏ませなくてはと思うようになっていたから「これだけ努力しても成功しなかったんだから、もう諦めよう。養子をもらおう」と説得して、しぶしぶ睦美も納得して調べたところ、父親が年を食い過ぎているからダメということが分った。
何か、私が原因でダメみたいな話になってきて微妙な雰囲気の中、一旦は納得した睦美も、それならと「ニューヨークに評判の良い病院があるから最後のチャンスをください」と言い出した。
正直、これだけ時間と金とエネルギーを費やしてダメだったものがニューヨークに行ってどうなるものでは無いと高を括っていたから、それで睦美の諦めが付くのならと了承して、私も付き合ってニューヨークまで行ったところ、今までの日本の病院の「難しい」という前提でのもったいぶった処置とは違い、妊娠するのが当然のごとくのシステマチックな流れに、何となくの可能性を感じるスタートとなった。
この辺りの違いを掘り下げることはスルーするが、近代医学とは実(げ)に恐ろしいもので、何と、一発で妊娠してしまった。2017年に入って家内が妊娠し、その10月21日に出産している。
これで事実上、私に残された最後のささやかな夢(南ヨーロッパ旅行)も崩壊したも同然だが、それだけでもショックなのに、あれだけ「生まれても何も手伝わなくても良いから。私が全部やるから」と言っていた約束はどこへやら、気が付けば、お風呂係は私になっていて、夜になれば当然のように「パパがお風呂に入れてくれまちゅよー」と連れてくるし、夜中、子供がぐずると私の方が先に起きてしまうから、ついついミルクを作って飲まさなくてはならないし、その最中にブリブリとウンチをすればおむつも替えなくてはならない。
何が悲しくて齢72もなって赤ちゃんのおむつを替えなくてはならないんだ? と、ただただ我が身の不幸を嘆く毎日が続いている。

そんな木林(「きりん」息子の名前。つまり「林木林」)も1歳半(2019年4月21日現在)になり、クルマが大好きで片時もクルマのおもちゃを手放さないし、運転席が大好きでいつまでもハンドルをぐるぐるしているし、買ってやった乗用のラジコンベンツから降りないから、とても将来が心配だが、とにかく可愛い。
一筋貫徹猪突猛進型の睦美は、木林が生まれてからは愛情と情熱の全てを木林と子育てに向けるようになり、まだ1歳前後から、水泳教室や英語、音楽などの子供教室を駆け回り、泊りがけでいろいろなテーマパークを巡り、様々な子供向けイベントやキッズスクェアに出掛けるが、教室は送り迎いをさせられるし、テーマパークやイベントには付き合わされる。

決して私は洋子との熾烈な戦いを放棄した訳では無いのに、とにかく、睦美と木林が、遠慮会釈なく時間を奪いに来るから作業が進まないが、ふとした時に、人としての道を踏み外し欲望の業火に身を焼く洋子と、パパ、パパと話し出した木林をあやしている自分とを比べて、洋子に、いくら泡銭がたんまりと懐に入っているとは言え、私が、いくら資産の多くを奪われているとは言え、絶対にお互いの立場を入れ替えたいとは思わないから、家庭サービスの合間を縫っては反撃の準備を整えつつも、木林が運んできてくれた家族の幸せに癒される日々を大切にしながら、心のバランスを保っているこの頃だ。

林みのる