正確には「絶対に死なないレーシングカー」開発プロジェクトの挫折の記録と言うべきであり、老人にありがちな「わしも若い頃は・・・」的な自慢話に過ぎませんし、結果的に失敗談でしかありませんから、黙ってお蔵入りにしておけば良いものを、それなりに金も時間もエネルギーも投じたプロジェクトだった故に、このまま葬り去るのは忍びなく、せめて、ここで密やかにお披露目しておきたいと思います。ご笑覧いただければ幸いです。
>>PDF「絶対に死なないレーシングカー」開発プロジェクト
作成者アーカイブ: admin
COLUMN / ESSAY / LETTER
「絶対に死なないレーシングカー」開発プロジェクト
COLUMN / ESSAY / LETTER
「日本の自動車レースにおける産業革命論」
現状に満足している幸せな貴方は本書を読む必要なし
1963年に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が開催されて以来、57年(2020年現在)を経た現在においてさえ、我が国で、自動車レースが、これほど低迷を続けている現実を、努力の賜物だと思っている人、こんなものだと達観している人、諦めている人は、ここで終了だ。今後も密やかな趣味として楽しんでいただきたい。
いや、せめてGT等のビッグイベントくらいはTVで実況中継がないとおかしいだろう、5大新聞にレース結果くらいは掲載してほしい、プロドライバーが道を歩けばサインくらい求められたい、たまには「アナザースカイ」にドライバーが登場してほしい、日本のレース産業が無いとF1が成立しないと言われたい、レース関係の貿易収支を逆転させたい等、言い出したらキリも無いが、そのような希望の欠片でも持っている人は、ちょっと、この先を読んで頂きたい。
これは、刀折れ矢尽きた老兵の辞世の句だ
1965年から自動車レースの世界に足を踏み入れて以来、2015年に引退するまで半世紀に亘って日本の自動車レースの真っただ中に居て常に感じていた事は「つまらない」という思いだった。
それでも若いうちは改善に向けての意欲も持っていたし、チームとしてもコンストラクターとしても安定してきた1990年代から引退するまでの四半世紀の間、ある種の使命感を持って、繰り返し繰り返し、日本の自動車レースの発展振興についての提言を続けてきた。しかし、そこに私利私欲も我田引水も無かったのにかかわらず、レース界から聞こえてくる声と言えば、「また自分とこだけ儲けようと思って」というやっかみのような声ばかりだったから、大きな志も夢も希望も、途端に物売りのセールストークのように色褪せてしまい、いつしか私は目を背けるようになっていって引退を決意するに至る。しかし、ただ逃げるのではなく、最後にレース界に大きな置き土産を用意していたのに、思いもかけない事件の勃発により頓挫してしまう。
ともあれ、現在の私は、天下の素浪人であり隠居老人であり、童夢とも完全に縁が切れていて現在の社長も全く知らないくらい無縁だから、決して「また自分とこだけ儲けようと思って」意見を述べている訳ではない事だけはご理解いただきたい。
いずれにしても、四半世紀に亘る心の叫びが全く伝わらなかった日本のレース界の人たちに聞く耳は無いと思うが、まあ、遺言書か辞世の句くらいのつもりでお目通しいただければ幸いだ。
日本の自動車レースの構造
現状、その全てを自動車メーカーから下賜される資金に頼る日本の自動車レース界の経済構造では、イコール、日本の自動車レースの規模は自動車メーカーの出す金によって決まっている。
いわば、自動車メーカーに縋って成り立っている世界と言えるが、そのレース業界の人達の目標と言えば、その飼い主である自動車メーカーとのパイプを確立して安定的な仕事にありつくことだから、双六で言えば、そこで「上り」であり、それから先の事を考えている人は誰も居ない。ある意味、箱庭のような世界観で安定的に持続されている。
そんな日本の自動車レースの構造から鑑みるに、自動車レースを発展振興させるということは、つまり、自動車メーカーが自動車レースに使うお金を倍増すれば日本の自動車レースの規模は倍になる。それだけのことだ。
箱庭の世界観
レース界の人達は、口を開くと「もっとメジャーに」と言うものの、続く言葉が「若手ドライバーの育成」と言う念仏しかなく、唱え続ければ極楽浄土に行けると信じ続けている新興宗教の信者のような人達だが、問題は、その刹那的で短絡的で視野の狭い利己的なアイデアしか持たない信者たちの「若手ドライバーの育成」と言う念仏は、本来は、自動車レースそのものの社会的価値が向上してこそ意義を持つのであり、その育てたドライバーがリタイアすると、決まって「若手ドライバーの育成」を言い出す輪廻が続く限り、ドライバーのドライバーによるドライバーのためのレースに過ぎず、そこに発展も進歩も生まれてこない。
最悪なのは、この箱庭の金を取りあっている「若手ドライバーの育成」教の信者たちにとっては、結果的に、日本の自動車レースの発展振興や自らの社会的ステイタスを向上させる礎となるはずのレーシングカーの開発技術やレース産業の発展への努力や投資を「若手ドライバーの育成」の為の予算を削られる我が身を脅かすライバルのように受け止める浅はかな思考回路にあり、そこに、本質的には不必要な対立関係が芽生えてしまい、素人ゆえにドライバーの意見しか理解できない自動車メーカー担当者と共に、日本のレーシングカー開発技術と産業の発展振興を妨げる大きな壁となってきた事だ。
金は「もらう」より「稼ぐ」ほうが良い!
今までの長きに亘って金を出し続けてくれている自動車メーカーというパトロンからの施しはありがたく受けるとしても、それ以上を望むなら自ら稼ぐしかない。レース界の人は、ここで無理だとめげてしまうが、通常、どの業界も自ら稼いで生きているのであり、レース界のように、自動車メーカーに「ドライバー育成」等の生産性の乏しい企画を持ち込んでは糊口をしのいでいるだけでは、詰まるところ、仲間内で自動車メーカーの限られた予算を分け合っているに過ぎず、これでは、いつまでも業界の規模は変わりようもない。つまり「外部からの資金の導入を図る」という気概を持たない限り、日本のレース界は、何時まで経っても同じサイズの箱庭の中で展開される陣取り合戦の域を出られない訳だが、では、この箱庭を飛び出すには、どんな方法が有るのだろう。
どうして稼ぐのか?
そうは言うものの、新しい事業を起こすことは本当に難しい。一つの成功例の陰に何百もの失敗が埋もれている。特に、現在の箱庭の住民にはとても無理だから、今は考えないでおこう。
では、どうして豊かにするのかと言えば、前述したように、日本のレース界には源泉があるのに垂れ流されているから、それを堰き止めるたけで箱庭に温泉ができて暮らしは豊かになるだろう。
つまり、現状、日本のレース界という箱庭から外部に流出している資金を堰き止めて日本のレース界で処理できる体制を築けば、その資金はレース界の中に留まり還流して、いずれ溢れてくるはずだ。
もう言い飽きたが、現状、日本のレース界の資金の流出の最たるものは外国製レーシングカーの購入であり、自動車メーカーがレーシングカーの開発やレース活動で海外に流出させる資金だ。
敗者の論理
私がこう言うと、必ず「外国製が優れているから仕方がない」とか「直ぐに勝たなくてはならないから」というような反論が返ってくるが、決して劣っていないし、何よりも、その理論が正しいのであれば、今後も外国のコンストラクターに貢ぎ続けて彼らの技術力の向上を助けて経験を積ませて企業規模も大きくしてやることになるのだから、その格差はますます広がる一方であり、つまり、未来永劫、日本のレース界は外国のレギュレーションに準じて外国のレーシングカーを買い続けてドライバーだけが競い合う現状から脱却は出来ない事になる。
戦後、海外ブランドを買いあさり、中国製の安物を買い続けてきた日本が、GAFAに後れを取り中国にGNPで抜かれ有力企業がどんどん外国に買われていく現状を、まるで他人事のように眺めていられる心理状態が歯がゆいが、原因は単純に「勝負」を捨てている事に外ならないし、レース界の「外国製が優れているから仕方がない」という言い訳も、単純に「勝負」を捨てている事に外ならないだろう。そういう人達にとっては、amazonで買い物してgoogleで検索してintelのCPUとMicrosoftの走るPCでWORDを開いて日本語を書きLINEで通信してTikTokで踊りDallaraで走る毎日に何の疑問も無いのだろう、そのアホさ加減がうらやましい。
そしてアジアに埋没する
私は今まで、世界のレース界と対等に付き合うためにはレーシングカーの開発技術が必要不可欠だから計画的な技術者の育成が必至と訴え続けてきたが、この意見の大前提としてあるのはFIAのレース体系下における経済圏に飛び込もうと言う提案だった。しかし、日本のレース界が手をこまねいている間に、アジア諸国のレース事情は急激に躍進していく。
1963年に「第一回日本グランプリ」を開催して、近隣のアジア諸国には半世紀以上のアドバンテージを築いてきた日本も、今や、開発技術力を持たず、レーシングカーは輸入に頼り、ヨーロッパのレギュレーションに支配されているという点においては、アジアの諸外国と何ら変わる事は無く、停滞していたのか落ちぶれたのかは知らないが、現状は、アジア諸国のレース環境の中に埋没しつつあるのが現実だ。
ヨーロッパのレースの経済学
私が、長年に亘ってレーシングカーを作り続けてきて感じてきた事は、FIAによって頻繁に行われるレギュレーション変更は何のためだろうと言う疑問であり、また、3年くらい経つとレーシングカーを入れ替える話が出てくる不思議さだったが、そんなものだと思っていたレース界の常識も、長く携わっていると仕掛けも見えてくる。
レギュレーション変更もレーシングカーの入れ替えも、レーシングカー・コンストラクターにとってはありがたい話ではあるし、それをリードしているのがFIAだという事は、そこに持ちつ持たれつの互恵関係が存在すると考えるのは自然だし、癒着と言うよりは、大局的に見れば、FIAとコンストラクターが協調して作り上げているレース界の経済を回すための仕組みと考えた方が素直だろう。
しかし、その互恵関係の中に飛び込んで利益を得る側に回るのならありがたい話でも、蚊帳の外にいて、ころころ変わるレギュレーションに翻弄されつつ、絶えず無駄な買い物をさせられている日本のレース界は、彼らにとっては単なるカモだ。
コペルニクス的転回
ここまでは、今まで言い続けてきた内容のおさらいにしか過ぎないし、四半世紀に亘って叫び続けてきたことが急に理解されるはずも無いから、それはそれとして、今、私が提案したいのは「鎖国」だ。
この際、アメリカの自動車レースと同様に、FIAの傘の下から飛び出して日本独自の自動車レースを構築するというアイデアはいかがだろうか?
外国の自動車レース事情に振り回されることは無くなるし、海外への資金の流出は無くなるし、レース経費は極端に下がるし、日本のレース事情に見合ったカテゴリーが構築できるし、役に立たないJAFとも決別できるし、うまく立ち回ればアジアのスタンダードにできる可能性もあるし、そうなればレーシングカーも輸出できるから、良い事だらけだ。
「ドライバー育成」にしがみ付くOBたちの意見
必ず「F1を目指す若いドライバーのステップボードにならない」という声が出てくるが、本気でF1を目指すのなら日本でレース・キャリアを積むこと自体が方向を間違っているし、ろくに英語も話せないままにF1のシートに治まれるのは大富豪の息子だけなんだから、F1を目指そう決意したと同時に海外に向かうべきで、国内のレース環境云々とは異質な話だ。
レーシングカーという誤解
1000分の1秒を競う技術の塊のように喧伝しながら実はバッタ商品のようなワンメイク・レーシングカーがはびこっていたり、安全性を謳いながら未だにコストダウンのためにカーボン・モノコックを使えないカテゴリーがあったり、真剣勝負を売りにしながら性能調整しまくったり、とかく自動車レースはギミックの塊だ。
クールな外観ながらも中身は手抜き工事の家みたいだが、そもそも現在のレーシングカーとは、時速300Km/hで疾走する超先端技術の粋という仮面とコストダウンという実情との二律背反から生まれて来た妥協の産物であるにも関わらず、レース界の人達自身が妥協点を見極められずに、中途半端なレーシングカーに高い金を払わされているのが現状だ。
発想を新たにして、新しいレーシングカーの形を生み出そう
この構想のキモとなるのは、レーシングカーの長期使用によるコストダウンだ。正確に言えば部品の長期使用だ。モノコックはアルミからカーボンになって耐久性は飛躍的に向上したし、そのカーボンも、初期に比べれば何倍もの耐久性を持つようになっている。また、レーシングカーを構成する数多くの部品も、シーズン中に何回も交換しなければならない消耗部品から、ほぼ劣化しない耐久性を持つ部品まで千差万別であり、全てが3年で使えなくなる訳では無い。つまり、各部品に見合った交換時期に替えれば良いのだ。
シャシー部品の中でも突出して高価なモノコックも、近年は、ワンメイク・レースが多くなり、イコール・コンディションの元、グラム単位の軽量化も意味が無くなっているから、少し重くするだけでも耐久性は飛躍的に向上し、親子三代で使えるモノコックを開発することは難しくない。現に、童夢カーボン・マジックで開発したソリッド構造の「UOVA」は、JAF-F4やマザー・シャシーで、その耐久性は実証されている。
つまり、最も高価な部品であるモノコックを使い続けることを軸として、その他の部品も耐用年数を明示して必要に応じて交換していく。その上で、外観を変更したり安全対策を強化したり新しいエンジンを導入したりと、時代に応じた対応をしていく。これにより、レーシングカーにかかる経費を1/4にしてしまおうと言う構想だ。
マザー・モノコック構想
このモノコックの長期使用を支えるのが安定的なレギュレーション運用だ。詳細は今後の課題として、例えば、まず4種類のマザー・モノコックを用意して、それぞれについてカテゴリーを制定する。
あくまでも例えであり、今、カテゴリーについて協議する段階では無いが、4種類のマザー・モノコックの展開例を挙げておく。
ジュニア・フォーミュラ用モノコック | スクール用フォーミュラ、F-J、VITAのような車両等 |
ライト・フォーミュラ用モノコック | FIA-F4クラス、F3クラス等 |
スーパー・フォーミュラ用モノコック | スーパー・フォーミュラ、グラチャンのような車両等 |
GT用モノコック | スーパーGT、インタープロトのような車両等 |
レーシングカー・コンストラクター
万が一、「良いじゃないか!」となったとしても、次に控えるのが「どこで作るの?」という疑問だ。最初にこんな疑問が出てくること自体が末路だが、これが、いままでレース界の皆様が注力してきた「ドライバー育成」偏重のツケだ。しかし、こんな惨状でも光明はある。
長年に亘って私の片腕として童夢の技術面を支えてきてくれた奥明宋は、現在、「東レ・カーボン・マジック」の社長だが、私の知る限り、ただ一人、真剣にレーシングカー・コンストラクターの復活に取り組んでいる人間だ。その為に、社内に「スポーツ車両開発室」を設け、人材を集め、「ムーンクラフト」を買収するなどして体制を整えている。こういうと、レース界からは「だから外国製しかない」という我が意を得たりと言う声が聞こえてきそうだが、このような、アメリカに恭順し、中国に阿て、ヨーロッパに秋波を送り続ける人たちの声は置いといて、ここを克服しなければ、これからも永遠にFIAのカモとして貢ぎ続けるしかないのだから、いわば「ヨーロッパのしもべとして生きる」か「アジアの覇権を握る」かの分かれ道と言える。
しかし、私の居た頃の童夢の実績を見れば実現不可能な絵空事でない事は解るだろうし、巷には、童夢でレーシングカー開発の経験を積んだ技術者が散逸して様々な形で活躍しているが、彼らはレーシングカーが作れないから離れたのであり、レーシングカーを作れる環境が戻れば帰ってくる人たちだから、それらの力を結集すれば即戦力となるし、現状、少し後塵を浴びているにしろ、実務に戻ることにより早期に最前線に復活するだろう。
問題は時間だ。技術者は生ものだから、経験が活かされる間での復活が重要であり、時間が経ってしまったら全てがご破算となってしまい、そうなったら、二度と我が国でレーシングカー・コンストラクターは生まれないだろう。しかし、経験上、言わせていただけば、我が国にもレーシングカーを作りたい人たちは山ほど居るから、安定的にレーシングカーを作ると言う環境が出現し技術者が活躍できるフィールドが整えば、確実に、雨後の筍のように思いもかけないところから優秀な技術者の新芽がにょきにょきと頭を出してくるはずだ。それを妨害してきたのはレース界だ。
日本の自動車レースにおける産業革命論
つまり鎖国だ! レースコストが激減すれば高い買い物を強いられていた事が解るだろう。国産化が進むうちに技術力も向上して内外からの開発受託も活発になるだろう。アジア諸国を同調させればレーシングカーも輸出できるだろう。FIAやJAFなどの「お上」と関係無くなれば存在も忘れてしまうだろう。頻繁なレギュレーション変更の理由も解ってくると腹立たしく思えてくるだろう。「ドライバー育成」の錦の御旗も色を失ってくるだろう。まあ、夢物語に過ぎないことは身に染みているが!
近い将来、日本が東南アジアのレース環境の一つに埋没している頃に、「あれっ、こんなはずではなかったのに」と思った方は、ちょっと、この提案を思い出していただきたい。私は、それを見て、草葉の陰て「そら見た事か!」とほくそ笑んでいるだろう。
NEWS / INFO.
Feb.03 2021メールアドレスが変わります
もう何十年になるのか覚えていませんが、私がeメールを使い始めた時からのhayashi@dome.co.jpとお別れして、hayashi@dnf.kyotoに変わります。
dnfはDO NOT FINISHの略で、志半ばで挫折した私の哀れな人生を表現しています。
当面は転送設定しているので、どちらのアドレスでも届きますが、なるべく早期にアドレス帳の変更をお願いします。
【新アドレス】 hayashi@dnf.kyoto
COLUMN / ESSAY / LETTER
2021 HAPPY NEW YEAR
昨年は、コロナ時代の隠居老人の割には様々な出来事がありましたが、一番大きな変化は、「童夢」と完全に縁が切れてしまった事でしょう。もともと、私が童夢の未来を託した現オーナーが投入してきたのが高橋社長でしたし、私も十分に話し合って承認しましたから、基本的に、私は高橋社長を支える立場にありました。しかし、レーシングカー・コンストラクターを引き継いだはずの現オーナーも高橋社長も「利益を上げてからレーシングカーを作る」というスタンスでしたから、「そんな悠長な事を言っていたらいつまで経ってもレーシングカーは作れない」という私とは、経営/運営方針には大きな違いがありつつも、高橋社長のビジネスに対する絶対的な自信に惑わされてもいましたし、経営権の欠片も無い私は横で文句を言い続けるしかないという状態が続いていました。もっとも、企業の姿勢としては、彼らの論理が正しくて私の暴走を煽る主張の方が間違っていることは自明の理でしたが、そうしないとレーシングカーを作るチャンスさえ無かったことも事実ですし、何とか童夢が生きながらえてこられた原動力となっていたことも事実です。
そんな訳で、レーシングカーを作らない童夢に私が出来ることは何もありませんでしたから、譲渡から2年後には、相談役も顧問も退いていましたが、それでも高橋社長とは変に気が合って、特に個人レベルでは仲良く付き合ってきましたし、童夢に関しても、いろいろと相談されたり愚痴を聞かされたりの関係は続いていました。
もともと、現オーナーと私とは旧知の仲でしたが、童夢の譲渡話が少し停滞していた頃に、間に入って熱心に仲立ちをしてくれた女史がいました。この女史は現オーナーとも私とも古い知り合いでしたし高橋社長を連れてきたのもこの女史でしたから、この四角関係はそこそこ縁深く、本来は協力し合える関係だったはずなのですが、何と、その女史が連れて来た高橋社長と女史の間で確執が芽生え始めます。
構造的には、女史としては、私と現オーナーとの譲渡話を纏めたのは私(女史)だし、社長(高橋)を連れてきたのも私(女史)だから私(女史)は童夢の要職にあるべきだという思い込みに加え、現オーナーの女史への信頼感が強い事を後ろ盾にして何かと童夢に干渉してくるので、全権委任を前提に、さっそく住まいを京都に移してフルタイムで経営に専念していた高橋社長からすれば邪魔な存在でしかなくなり、だんだん、その拒絶反応は臨界点に近づいていました。
私は、基本的に高橋社長を支える立場だったものの、不必要ないざこざは誰の利益にもならないので当初は丸く収めようと動いていましたが、その内、高橋社長の怒りが臨界点を超えてしまったのと、私から見ても、現オーナーの信頼を嵩に懸けた女史の介入ぶりが鼻についてきたので、このまま放置しておいたら高橋社長が辞めてしまうし、そうなったら、高橋社長の営業手腕だけで息を繋いでいる童夢の将来は絶望的(そもそも私は、営業努力だけで食いつないでいる状況を是認している訳ではありませんが、それも無くなれば何も無くなりますから)ですから、何回も現オーナーに女史の排除を訴え続けていました。
ところが、現オーナーは「解りました」と言うものの状況は改善されないままに2年くらい続いた頃には、全体構造からみれば、はなはだおかしな構図なのですが、高橋社長と高橋社長を支える私VS女史と女史を支える現オーナーという対立関係が生じてきていました。そして、いろいろいろいろあった後に、現オーナーが高橋社長/私か女史かを二者択一する状況が生じ、現オーナーが女史をチョイスしたので、結果、昨年の7月15日に高橋社長は退任となり、同時に私も完全に縁が切れ、その後は全く童夢に行ったこともありませんし高橋社長の後釜の人も知りません。
晴れて童夢は女史の支配下に治まりましたが、まだまだ、これからどこを目指すのか見えないものの、現オーナーとの最初からの約束通り、絶対に、意匠や工業所有権や現存の開発車両などの知的財産を散逸させないように健全な経営を心掛けていただきたいと願っています。
何とか我が国のレーシングカー開発技術の火を灯し続けることだけを目的に、いろいろと画策してきましたが、技術力で外国のレーシングカー・コンストラクターと戦うどころの次元の話では無く、真夏の炎天下で溶ける氷柱を眺めているほどに成す術も無く、改めて、日本に「童夢」が存在していた事は奇跡だったと再認識しています。
一縷の望みがあるとすれば、隠居老人の私のところに、レーシングカー作りを経験してきた技術者の人達から「レーシングカーを作りたい」という相談がちょくちょく来ますから、巷には、少数ながら、まだ、そういう志を持った技術者も存在します。
年明け早々、ある企業がレーシングカー開発の重要性を認識して会社として取り組む事を発表します。そこにさ迷えるレーシングカーを作りたい技術者たちが集まってレーシングカー・コンストラクターとしての活動を開始するという初夢を観ましたが、枕もとで木林の「パパ」と叫ぶ声で起こされましたから、その後、どうなったかは分かりません。正夢である事を信じたいと思います。
COLUMN / ESSAY / LETTER
さようならネコちゃん!!
「ライザGT」
1969年の、ある日、本田博俊氏(博ちゃん)から電話があり、「アート・センターに行っている友達が日本でスポーツカーを作りたいと言うからウチのガレージを貸すことにしたのだけど、アメリカの最新のテクニックを披露すると言っているから見に来ないか?」とのこと。もちろん飛んでいって出会ったのが金古真彦(ネコ)だった。
アクションが大きくアバウトな感じで見かけ無神経そうで大陸的な性格という表現がぴったりのネコとは、瞬間的に友達になってしまった。本田宗一郎さんの豪邸のガレージの下にはシェルターのような部屋があり、そこには保存用の食料なども備蓄されていたから、空調の利いた部屋で充分な食料に囲まれながら、先進のテクニックの披露が始まった。
当時は、合板でおおむねの形を作っておいて石膏で覆って原型を作っていたのが、FRPで表皮を作ってパテで仕上げるようになっていた頃だ。
何が違ったかと言えば、合板のセクション板までは珍しくも無かったが、ネコは、その間に2液性の発泡ウレタンを充填して縛りのきついハムのようになったウレタンを削って、かなり素早く形になってきたので、博ちゃんと私も手伝い、セクションに沿って面を仕上げていった。夜中に面を出し終えたので翌日にパテで仕上げることにして寝たが、翌朝、それは縛りのゆるいハムのように凸凹になっていた。
安定していない間に削ってしまったから膨れたんだという事だったので、また、一日かけて面を出して寝たら、翌朝には縛りのゆるいハムになっている事が一週間も続いた頃、私は手伝いに呼ばれたことを理解した。
キリがないので私は、一旦、FRPで雌型を取ってから、その内面をパテで仕上げようと提案し、出展予定の第2回東京レーシングカー・ショーが迫っていた事からネコも了承して従来工法に戻して、何とか、美しい(本人談)ライザGTが完成した。ネコと出会った日から過酷な毎日が続いたおかげで、もうしっかりと親友の領域に達していた。
「ネコママ」
当時、プレスリーファンだった私は、1973年のハワイでの公演を観に行く事にしたが、初めての海外旅行だったから不安がっていたら、ネコが「僕のガールフレンドがハワイにいるから、全部、面倒みさせるよ」と言い出した。ネコの場合、どの程度の知り合いなのかは分からないから、半信半疑で投宿するホテルのロビーで待っていたら、真っ赤なオープンのダッジ・ダートがエントランスに到着。ホットパンツから思いっきり長い脚を放り出した美女がさっそうと歩み寄ってきて「林さんですか?」と声をかけてきた。
彼女の運転でいろいろなところを案内してもらったり、食事に行ったり、ホノルルの山道に走り屋が集まると聞いて観に行ったりしているうちに、とても彼女とは打ち解けてきて、夜が更けても名残惜しい感じでどちらも帰ろうと言い出さず、ずいぶんと遅くまでデートを楽しんでいた。明け方になってやっと部屋に戻ると、ネコから間髪を入れずに電話がかかってきて、「どうだった?どうした?どうなった?」ととてもうるさい。私はいかに楽しい一日を過ごせたかを克明に説明してお礼を言ったが、「明日は?」と聞くから、「もちろん会うよ」と答えると、唐突に、「言っとくけれど、僕の彼女だからね」などと言い出した。
そんな事を言われても、こちらも突っ走り始めているから止まらない。次の日は、もう食事時から恋人ムードで楽しく過ごし、食後は真珠湾の方までドライブしながら、どちらから誘うともなくサトウキビ畑を抜けた海の見える崖っぷちに車を停めて肩を寄せ合うような雰囲気になってきたから、私は既にハワイでの暮らしなども頭に想い描きつつある時、どうやらそこは基地の敷地内だったらしく追い出されてしまい、一気にクールダウンした二人はホノルルに戻った。
ホテルに帰ったら、また間髪を入れずに電話がかかってきた。どうやらずっと電話をかけ続けていたようだ。「どうだった?どうした?どうなった?」は昨日と一緒だったけれど、その日の出来事を説明すると、途中で急に「僕は彼女と結婚するんだ」と叫びだし、紹介したものの思わぬ展開に焦りだしたのか、穿(うが)った見方をすれば、彼女の陽動作戦に乗せられてその気になってきたのか、そうであれば私はだしに使われたようなものだが、しばらくして彼らは結婚してハンティントン・ビーチに住み、私のアメリカでの定宿になる。
「DOME USA」
ジュネーブ・ショーで「童夢-零」を発表した後に国内での認定取得を試みていたが、運輸省の対応に頭に来て断念したから、どこか海外で取得するしか道は無かった。
ハワイの彼女と結婚したネコはハンティントン・ビーチで貿易商などを経営していたが、ネコが日本に帰って来た時に、日本での認定取得を諦めた事を話したら、「そりゃ、みのるちゃ~ん(ネコはのばす)、アメリカでやるっきゃないでしょう」と熱弁をふるい始めた。とは言っても、当時は英国で取得するのが早道なのは常識だったから有り得なかったから、とても無理、無理と聞き流していたが、いつもの事ではあるけれど、言いだした本人がヒートアップしてしまい、まるでそれしか方法が無いような口調で、日夜、攻め立ててくる。
そんな頃、ネコに誘われてロスに行くことになったのだが、訪れたネコのオフィスにいた秘書のPattyはとても可愛くて、私たちはその日のうちに恋におちたから、私は滞在を延ばして、それから毎日のように二人でロス近郊をドライブしまくっていた。
Pattyの英語はネイティブだったからアメリカ育ちだと思っていたら、実は広島生まれでアメリカンスクールに通っていたらしく、ロスはほとんど知らないとのことだったので、お上りさんカップルがガイドブックを片手にロスの隅々まで散策した。
もちろん、英国での手続きの方が簡単な事は知っていたから、本来、アメリカでの認定取得など有り得ない話だったが、しつこいだけのネコの説得もそれなりに功を奏していたし、ロスの青い空とパームツリーも大好きだったが、何よりも、Pattyが居たから、いつしか、アメリカでのナンバー取得に向けて動き始めていた。
予想はしていたが、そもそもの規格が異なるから、ライトの位置やバンパーの高さなど、当初、考えていた「童夢-零」の改造では済まなくなり、結局、新たにアメリカ仕様の新型車「童夢 P-2」を製作しなければならない事になった。
この頃のテンポは異常に速い。1978年の秋口には、もう、ネコの経営するハンティントン・ビーチの会社の一部を借用し、ネコを社長にして「DOME USA INC.」を設立していたが、つくづく男は、スポーツカー・メーカーには強い憧れを持っているもので、ネコもすっかりとのめり込んで大変に熱心に取り組んでくれるのは良いのだが、とにかく火の玉のような行動力だからついていくのが大変だった。
「DOME USA」のあったハンティントン・ビーチは「Big Wednesday」というサーフィン映画で有名なサーフィンのメッカだし、405を少し南に行くとコスタ・メサに巨大なショッピング・センターがあるし、Beach Blvdを北上するとディズニーランドがあるし、海沿いを西に向かえば、ロングビーチからサンタモニカにつながっている。
だからどうという訳ではないが、とにかく西海岸の気候も環境もパームツリーの並木もランチのクラムチャウダーとキングクラブの脚も、全てのロスの雰囲気が大好きだったし、おまけに可愛いPattyも待っているものだから、具体的な回数は覚えていないが、当時、感覚的には、月2くらいで日本とロスを往復していた気分だった。
ハワイで恋に落ちそうになった彼女はネコの奥さんとなりハンティントン・ビーチの家で暮らしていた。私は、しょっちゅう泊りに行っていたが、ネコの家はロスあたりの自動車デザイナー達の溜まり場のようになっていたから、パーティやったり、いろんな人が集まってきていた。ネコのキャラクターもさることながらネコママの人気も相当なもので、さながらみんなのアイドルという状況だった。
「童夢 P-2」は、ロスではちょっとしたニュースになっていたので、ネコのところに、5月(1979)に開催されるLA・オートエキスポから出展しないかとのお誘いが来た。ジュネーブ・ショーほどではないにしろ、アメリカでは最大級の自動車ショーということなので参加することを決めたが、ネコの張り切ること張り切る事。原因は美人コンパニオンにあり、ネコは、準備のほとんどの時間を美人コンパニオン選びに費やしていた。
ショーの会場では、メディアからの取材が多く、中でも、アメリカのメジャー自動車雑誌である「Motor Trend」誌からは、表紙を含む7ページの特集を予定しているから協力してほしいという依頼が来た。私はあまりピンとこなかったのだが、現地で「Motor Trend」のメジャーぶりを熟知しているネコは狂喜して「みのるちゃ~ん!これは大変なことになったよ」と大興奮だ。
「童夢 P-2」が表紙の「Motor Trend」誌が発売されるや否や問い合わせが殺到し、やはり、その効果は絶大であった。ネコが留守中にReggie Jacksonと名乗る人から「予約したい」と電話があり、それを聞いたネコは大興奮して、「みのるちゃ~ん!知らないの?メジャーリーグのスーパースターだよ」と騒ぎまくっていた。
私はハリウッドの芸能人の名前もほとんど知らなかったから全く覚えていないが、かなりのハリウッドスターなどから問い合わせがあったようだし、さるお金持ちの王国から購入希望が来たり、この頃のネコは、かなり血圧が上がっていたのではないだろうか。
「ルマン24時間レース」
ところが私は、ひょんなことから「ルマン24時間レース」に挑戦するチャンスが訪れた事から、途端にスポーツカー開発から興味を失い、ルマンカーの開発に没頭するようになり、ネコの「DOME USA」は置き去りになってしまう。
燃え上がっていたネコにとって、突然のルマン・プロジェクトは青天の霹靂だったし、急にスポーツカーに関心を示さなくなった私や童夢に怒りをぶつけに京都にやってきたが、ルマンに向けて殺気立つ、あまりの没頭ぶりに諦めて帰っていった。
しかし、ネコはルマンにやって来た。ネコによれば、ルマンを諦めろと説得しに来たそうだが、得意の英語力を活かしてチームの手伝いをしている内に、すっかりとルマンの虜になってしまったようで、そこは大らかというかアバウトというか、もともと大陸系の感性の持ち主だったから、すっかり我々と共にルマンの熱気に煽られて、リタイアした頃は、スタッフのみんなに、何回も何回も「来年も来ようね!」と言って回っていたものだ。
「マロニエの並木道」
ある日、ネコからメールが入ってきた。
「今、どこに居ると思う? パリだよ。マロニエの並木道のカフェで婚約者を待っているんだ」
「ホント!そりゃおめでとう!」
「でも、もう4時間も待っているんだけど、彼女、大丈夫かな?」
「ところで、何でパリなの?彼女はフランス人?」
「いや、ロシア人だよ」賢明な諸氏は、もうここでストーリーの概略はお解りになったと思うが、その通りだった。
「どこで出会ったの?」「婚活サイト」「会ったことあるの?」「ない」
「お金送った?」「彼女の店をたたむ費用とか交通費とか300万円ほど」「それって、確実に詐欺だよ」
「そんなことないよ。何回もメールのやりとりして理解しあっているから」 それから2時間。
「みのるちゃん、やっぱり詐欺じゃなかったよ。空港にお母さんに送ってもらう途中に事故にあってお母さんが脚を切断して入院したから来られなくなったらしい」「普通、それを詐欺と言うんだよ!」
「ロシアの白夜」
それから1年くらい後のメール。
「今、どこに居ると思う? サンクトペテルブルグだよ。婚約者とディナーを楽しんでいるところ」
「また騙されてんの?」「今度は大丈夫。もう、ちゃんとする事はしてるから」
「また婚活サイトで知り合ったの?」「そう、めちゃくちゃ若くてかわいい子だよ」
「そりゃ、良かったね。彼女、英語話せるんだ」「いや話せないよ」「どうやってコミュニケーション取ってるの?」
「通訳が付いてるから大丈夫」「通訳って、ずっと付いている訳にもいかないだろう」
「通訳はディナーの後は帰るよ」「夜はどうすんの?」
「だって、みのるちゃん、夜は言葉は要らないでしょ」すぐに終わった。
私に、ネコの悪口を話させたら朝まで止まらないだろう。と言うよりも、私が話すと全てが悪口に聞こえてしまうが、私から言えば悪口ではなく、ネコのピュアな一面を紹介しているつもりだ。あの風貌だから表現は適切では無いが、私から見ればガラスほどに透明感のある人となりは、まるで子供と遊ぶように、疑う必要もなく、気を遣う必要もなく、一切の悪気を感じる事も無く、私の方まで子供になってつき合える心地よい友達だった。
私は無尽蔵に金の要る自動車レースの世界に居たから、誰もが、私に近寄っても金にならないどころか、下手したら取られるのではないかと思われていたのだろう。今まで、一切、金銭トラブルとは無縁だったが、69歳での引退に先立ち会社を売却した事から、何だかんだと金にまつわる嫌な出来事が重なり、ちょっと人間不信的な気持ちも芽生えつつあるが、そんな時、一番、会いたいと思ったのがネコだ。大好きなロスの気候の中で、ネコと裏表のない屈託のない話をしているだけで癒されると思っていたから、昨年末には「来年の春には行くよ」と言ったら「二人だけで来るんじゃないだろうね。もう一人連れてきてよ」と生臭い返事が返ってきたから、まだまだくたばる気配も無かったのに・・・合掌。
林みのる
COLUMN / ESSAY / LETTER
Dec.10 2019 「フォーミュラ・レースの裏と影と闇」
届かない安全性向上への願い
1987年に、当時の私にとっては夢のプロジェクトであったトヨタのルマン挑戦から、なぜか脱落してしまったので、途方に暮れた私は、ちょっとしたきっかけから、既存のコンストラクターのシャシーを使うというレーシングカー・コンストラクターとしては不甲斐ない形でフォーミュラ・レースに参戦するようになりましたが、もともとスポーツカー・レースにしか興味のなかった私も、レーシング・チームとしてフォーミュラ・レースに関係するようになってからは、たちまち、フォーミュラ・レーシングカーの開発を考えるようになっていましたし、1年後には試作車が完成していました。
それから、F3000でシリーズ・チャンピオンを獲得してF1の開発に着手する頃まではフォーミュラの開発に熱中していた私も、その頃から、その形態に疑問を抱くようになっていましたし、だんだんと安全性を無視した野蛮な乗り物にしか見えなくなっていましたが、そういう目でフォーミュラ・レースを見るようになってから気が付いたのが、レース界のフォーミュラの安全性に関しての無関心ぶりです。
それは国内レースだけではなくF1たりとも同様でしたが、現在の技術力をもってすれば直ちに対策可能な問題も放置したままのレース界の姿勢に理解が及びませんでしたから、F1のプロトタイプが完成した1995年頃からでしょうか、私は、フォーミュラの安全性の向上について言及する事が多くなっていました。
それではここで、私が訴え続けてきた安全対策の足跡をご披露しておきましょう。
<FD99> 1999年には、ホンダのフォーミュラ・スクールカーの安全性の向上を提案し、開発を担当する事になりましたので、頭上を保護するロールバー(現在で言うところのHALOのようなもの)やタイヤの接触を防ぐサイド・ポンツーンなどの提案をしたものの、元ドライバーのスクール校長の「F1に似ていなければダメ」とか「タイヤを接触させないコントロールも練習の内」などという意見が尊重されて、至って標準的な仕様となってしまいましたが、それでも、TAKATAの衝突シミュレーション試験機を借りて研究を重ね、当時としては最高レベルの安全性を誇る入門フォーミュラを開発したところ、あまりに高品質だったために、本来、3年ごとにリピートオーダーが来るはずだったのに十数年を経ても使い続けられて再発注はありませんでした。
<スーパー・フォーミュラ/ FCJ> 2006~2013年頃には、Japan Race Promotion (JRP)に国産化とともに安全性の向上を訴え続けてきましたが、ことごとく無視されてきました。提案内容の一例は下記。
<F20> 2009年には、安全性を提案するプロトタイプとしてキャノピーを装備しタイヤをカバーしたF20を発表しましたが、キャノピーに注目されることはありませんでした。
<JAF-F4> 2010年には、それまで、コストダウンのために危険なアルミ・モノコックしか使えなかったJAF-F4用にカーボン・モノコックを導入できるように、アルミ・モノコックと同等の価格のカーボン・モノコックを開発した上でJAFにレギュレーションを変えさせましたが、アルミ・モノコックも認められてしまいましたので有名無実になってしまいました。
<スーパーFJ> 2011年には、コストダウンのために危険なパイプ・フレームしか使えないスーパーFJの為に、高度な強度計算により設計され3次元加工した長角鋼管フレームを用いたスーパーFJを開発してZAP SPEEDに提供しました。

FD99

F20

JAF-F4

スーパーFJ
Japan Race Promotion (JRP)に提案していたFormula Challenge Japan(FCJ)等の安全性の向上案。

ホンダのフォーミュラ・スクールカーだけは、安全性向上の必要性を理解したホンダのおかげで実現しましたが、不思議なことに、その他の安全性に関する提案はことごとく無視されてきましたし、JAF-F4などは、かえってコストアップになるから要らぬおせっかいをするなとバッシングを受けたり(実際には、コストキャップがありますし、アルミ・モノコックと同等の価格のカーボン・モノコックを開発しましたからコストアップにはなり得ません)、既存のコンストラクターから童夢のカーボン・モノコックは粉々になるから危ないなどの噂をばらまかれたり、私が創立した日本自動車レース工業会(JMIA)においてすら若干名を除いては無関心だったり、そのうえ、唯一のレース専門誌である「AUTO SPORT」誌からも「平和なJAF-F4をかき乱すな」という論調で揶揄されるくらい逆風が吹き荒れていました。
多大な時間と予算を投入して発明と言っても過言ではないほどの新技術で作り上げた廉価版のカーボン・モノコックは、あろうことか村八分状態に陥っていきましたが、少しはレース界への恩返しという気持ちもありましたし、フォーミュラ・レーシングカーの安全性を向上させなくてはならないという使命感もありましたから、身銭を切っての奉仕的な活動だったのに、このようなレース界からの排他的な反応やバッシングは想像を絶していましたし、理由すらも理解できませんでした。
それ以来、私はちょっと萎縮してしまったようで、時々、コラムなどで愚痴をこぼすだけで、いわば傍観状態が続いていた頃、私は引退してしまったので、フォーミュラに対する心配からも遠ざかっていましたが、そんな頃、私の後任の後任としてJMIAの会長になっていた著名なレーサーOBが、昔ながらのパイプ・フレームにFRPのボディをかぶせただけの危険極まりないレーシングカーもどきに、とっくにリタイアした老ドライバーを集めてレースをさせると聞いて止めろと忠告しましたが聞く耳を持たず、また、他の著名なレーサーOBも同じレーシングカーに初心者の女性を乗せて競わせるレースを始めると聞きましたが、聞こえてくるのは「面白い」「画期的」「活気づく」などというような肯定的な意見ばかりで、安全性に対する危惧などは一言も聞こえてきませんでしたから、さすがの私も、すれ違うとか噛み合わないとか以前に、レーシングカーに安全性を求めること自体が野暮な事なんだと思えてくるほど、現実は危険に寛容でした。
「UOVA」モノコックについて
しかし当初、JAF-F4はモノコックをワンメイクにすることを前提としていましたから多少の重量増は問題ではないと考えていたところ、あろうことか、既存のコンストラクターの画策によりJAFが旧来のアルミ・モノコックの参加も認めてしまったので、軽いアルミ・モノコック車の方が速くなり、JAF-F4からカーボン・モノコックは駆逐されていきました。えっ!アルミ・モノコックの方が軽いの?と疑問に思われる方もいらっしゃると思いますが、同じ剛性同じ安全性のモノコックとして比較するならアルミ・モノコックはカーボン・モノコックに比べて何倍も重くなりますから、逆に言えば、カーボン・モノコックと同じくらいの重量のアルミ・モノコックが、いかに脆弱かが解ると思います。
ハロー! HALO
このように、全くと言っても良いほど安全性に無関心だった日本のレース界ですが、それが日本の自動車レースのサムライ魂として誇りにしているのなら私に出る幕はありませんし、その命がけの挑戦を尊いと言うのなら信じる道を貫いて頂いたら結構ですが、遅きに失したといえ、F1の世界で、おざなりの安全対策としてのHALOが採用された途端に、安全性が錦の御旗となって大仰に振り回され始めますから、さすが、外国に言われないと何も動かない国の自動車レース界だけあって見事な恭順ぶりを発揮してくれています。
その変わり身の早さは立派な風見鶏と言えますが、その風向きが変わった原因が、安全性についての意識が高まったという訳では無く、FIAが採用したから追従しているに他なりませんし、基本、重大事故が発生した場合の責任逃れの布石を打っているだけに過ぎません。
今、声を大に「HALOは絶対に必要!」と叫んでいる人たちは、ついこの間まで、HALOの付いていないフォーミュラのレースを主催したり、チームとしてドライバーにシートを与えたり、スタート前のドライバーの肩を叩いて「がんばれよ!」と励ましたり、ヒーローインタビューしてみたり、「今年のレースは面白い」と煽ってみたり、何の疑問も躊躇もなく、ヘルメットの上に何も無くタイヤもむき出しのままのフォーミュラ・レーシングカーを認めてきた人達なんてですから、FIAがHALOを採用しただけで手のひらを反すように安全性を叫び出す人たちは素直すぎる黒柴のポチを見ているようで情けなくなります。
私がこう言うと、必ず、「少しでも安全性が向上するなら良いじゃないか」という人が居ますが、HALOを付けたところで、タイヤが丸出しでは、接触すればマシンは空中高く飛び上がりますし、前から部品が飛んでくればドライバーのヘルメットを突き抜けますし、スピンした側面に高速車が突っ込んできたらひとたまりもありませんから、「少しでも安全性が向上する」ということは、まだまだ危険が潜んでいるという事実を認識していると言う事であり、つまり、それらの危険性には目をつぶるという意味でしかありません。
フォーミュラが危険でなくてはならない訳
そもそも私はフォーミュラ・レーシングカーが好きではありません。なぜかと言えば、野蛮な乗り物に加えて合理性に欠けるからです。
まず、フォーミュラの形状そのものに必然性がありません。フォーミュラにフルカウルを被せたら空気抵抗が減少して速くなりますし、ダウンフォースも増えてコーナリングも速くなります。では、どうして百害あって一利なしのタイヤ丸出しかと言えば、その昔、黎明期の自動車レースにおいてボディから独立したフェンダーを取り外してレースに参加した名残りと思われますから、非常にレトロな形を守り通している懐古趣味と言えます。
フォーミュラ・レースを象徴するF1が、まだまだ危険なレースであることにも理由があります。レース界に、こんな馬鹿げたことを口走る人は居ませんから戯言と片付けられるのがオチだと思いますが、要するにF1グランプリというのは、コロシアムで格闘する戦士たちを高みの見物するヨーロッパの貴族達の趣味を源流とするゲームというか競技であり、当時も真剣で殺し合っていたように、本質的に、安全過ぎては面白くないのです。
だから時々、ドライバーが非業の死をとげることもF1グランプリというドラマのエッセンスに含まれており、レースを題材にしたほとんどの物語や映画でもドライバーの死は欠かせないエピソードとして盛り込まれていますし、(一部の)ドライバーも、シリアスな眼つきで「明日はレースだから、もう会えるかどうか分からない」と囁いて二人で夜の闇に消えていきます。
それでも、世間の目を気にして、事あるごとに小出しに安全性を見直してきましたが、現在の技術をもってすれば、まだまだ飛躍的に安全性の向上は図れるのに、依然、抑制的な訳は、意図的に危険性を維持しているとしか思えませんし、私が当初、フォーミュラ・レーシングカーを野蛮な乗り物だと感じた原因は、そのあたりにあったのだとおもいます。
平民の意見
だからフォーミュラは危ないままでも良いのだというのが結論ではなく、貴族でない私には、どうしても納得がいきませんから、私は、これからも安全性の向上を願い続けていきたいと思っています。
そんな頃、やっとFIAが上から降ってくるマシンへの防御策としてHALOを持ち出してきましたが、本来はFIAのレギュレーションに定められた特定のカテゴリーに義務付けられるHALOが、たちまち日本では標準装備化されていきます。
それは、いかにも日本的で恭順的な外国の風潮に流される受け入れ方でしたが、そこに、その機を逃さないレーシングカーの輸入代理店の営業戦略が絡み、日本のレース界は、またまた輸入業者に儲けさせて外国のコンストラクターに貢ぐだけの慈善事業に見返りのない散財をすることになってしまいました。
世界のF3事情とダラーラの商魂
そもそもの事の発端は、FIAが2020年からのフォーミュラ・レースのヒエラルキーを、F2,F3,FR,F4と決めたことから始まりました。このあたりの事情は長くなるから説明は端折りますが、ここのところFIAも迷走気味ですから何が正しいかという話は別として、本来は、FIAのASN(FIAの支部)であるJAFの統括下にあるF3協会としてはF3かFR( FORMULA REGIONAL)を来期からのカテゴリーとして選ぶべき立場にありました。しかし、高価なFIA-F3に鞍替えできるレース・シリーズは少なかったので、結局、FIA-F3はヨーロッパを中心に開催される「国際F3選手権」だけになり、F3協会としての選択肢はFRしかなくなりました。
ただし、ヨーロッパでは別の道を選んだレース・シリーズもありました。FIAが新しい規約に沿っていないレース・シリーズはF3を名乗ってはならないと言い出したので、ヨーロッパにおいても、車両をすべて買い替える余力のなかったスペインを中心として開催されていた「ヨーロッパF3オープン」は「ユーロ・フォーミュラ・オープン」という名称に変え、今年まで現役だったダラーラF317シリーズを使ってレースを継続することを決めましたから、イレギュラーな手段ではありますが、抜け道としては現行F3を使った間つなぎは可能でした。
そこで登場するのがHALOです。基本的に、F3を名乗れないユーロ・フォーミュラ・オープンはフォーミュラ・リブレですからHALOの装着義務はありませんが、それがどうしてHALOの装着が当然みたいな雰囲気になっていったのかと言えば、やはり登場するのはダラーラで、いち早く、ユーロ・フォーミュラ・オープン向けに現行ダラーラF317シリーズに小改造を加えたダラーラF320と現行F317シリーズをF320に改造するHALO付のアップデート・キットを発売しましたから流れはHALO装着に向かいます。
コンストラクターが、こういう動きをする時は、だいたい根回しが出来ていますから既定路線だったのでしょう。
冴えわたる輸入代理店の営業戦略
ユーロ・フォーミュラ・オープンの主催者であるGTスポーツが「チームにとって厳しい予算が求められる新しいFIA F3規約に適応することが困難」とコメントしているように、要するに、金がないから現行ダラーラを使い続けるしかないと言っている苦肉の策を、長年に亘り全日本F3選手権を主催してきた伝統を誇るF3協会が真似をするとは考えられませんでしたから、普通に考えればF3協会がFRを採用するものと思われていた状況下、2019年3月、5年ぶりに熟睡(または冬眠)していた獅子が立ち上がりFRの開発を公表しました。
「レーシングカーを作れ!」と高橋社長のケツを叩き続けてきた私としては、ほっと一安心していたところ、5月頃だったでしょうか? 高橋社長から、F3協会が2020年も現行のF3を走らせるという事と、FRはタトゥースを選択し、そのレースに混走させるということを言い出したと聞いて、大変に驚きました。
まず、童夢はそのあたりの根回しもせずにFRの開発をスタートしたのか?という事にも驚きましたし、童夢が既に3月に開発を発表しているのに関わらず、後追いでタトゥースの導入を押し込んでくる底意地の悪さにも悪寒がはしりました。
何か、おかしいと感じて聞き耳を立ててみたら、「全てのF3チームがタトゥースの導入と現行F3との混走を望んでいるからチームの総意である」という理由であるらしいことが聞こえてきましたが、しかし私は、童夢のFRに期待しているF3チームも、複数、知っていましたし、FIAが混走を許すとも思えませんでしたし、F3協会が王道から外れる事も考えにくいと感じていましたから、何か、ものすごく違和感を覚えて、もう少し詳しく調べはじめたところ、直ぐに全てのシナリオが浮き彫りにされてきました。
私は知らなかったものの、現在のF3協会の会長は知り合いでしたし、昔は、私とともにダンロップの京極部長の子分どうしだった真面な人ですが、実際に取り仕切っている副会長というのが、あの外国製レーシングカーの輸入代理店のM社長でしたから、途端に、全てのからくりと魂胆はあぶりだされてきましたし、ある意味で当然の成り行きであることが解りました。
しかし、そのM氏とは面識が無かったので、より詳しい事情を聞くために、TOM’Sの舘に紹介を依頼して会う事にしました。
M氏は、「チームの総意」という理由に加えて「FRは遅くてSF(Super Formula)のステップボードにならないから現行F3を継続すべき」という理由も付け加えていましたが、もっともらしい御託は置いておいて、その魂胆はみえみえでした。
単純な話です。その輸入代理店としては、国産のFRが採用されたら飯の食い上げですし、例え国産を排除してタトゥースを輸入するとしてもFIAが価格の上限を定めて厳重にコスト管理されている薄利なFRでは旨味はありません。それよりは利幅の大きなダラーラF320やアップデート・キットを売る方が遥かに儲かるという事情がありましたから、それを国内で売る方法を画策した訳です。
しかし、本来の流れがFRの導入にあり童夢が開発を発表している状況下、それを無視してタトゥースに変えるだけでも容易ではないのに、その上、メインのレースを、現行F3をそのまま流用するフォーミュラ・リブレに誘導するのですから凄腕です。その上のその上、現行F3をそのまま流用したのでは輸入代理店は儲けがありませんから、そこでJAFに対して「安全性向上のためにFIAが採用しているHALOの導入が必要」と説き、そう言われたらJAFは必要ないとは言えないので、本来は装着義務のないフォーミュラ・リブレにHALOの装着を義務付ける事を決めてしまいました。
結果、2020年から国内でF3に参戦するチームの全ては、この輸入代理店からダラーラF320かアップデート・キットを買わなくてはならないことになった訳ですが、それは、かなりハードルの高い離れ業を要求される営業戦略でしたし、この計画を実現させたM氏の手腕は協賛に値します。天才です。
呪われた童夢FR
一方、当然、F3協会の次期カテゴリーになるであろうという前提でFRの開発を発表し、すでに開発を開始していた童夢は、それも経験の内でしょうが、レース界の状況把握が甘かったのでしょう。このF3協会の方針は寝耳に水の話でしたから、童夢は、5月頃から何回かF3協会との接点を持ち、本件に関して協議したようですが、F3協会の公式な見解は下記のとおりであり、エントラントの総意に基づく既決事項であるとの理由で、取り付く島もない対応が続いていたということです。
JAFからはFRの導入を求められているがSFLと混走するしかない。車両はタトゥースに決定。
これらはF3協会だけでは無くエントラント含めた全員の総意であり、その旨をJAFに申請済み。
童夢としては、いろんなルートから再考を促したようですが、F3協会としては「参加チームの総意である」「既決事項」の一点張りで取り合ってもらえず、徐々に、この不条理な決定は既成事実化していきました。
しかし、一部のチームからもおかしいという声が出ていたところ、F3菅生大会時(6月23日)のエントラント・ミーティングにおいて、エントラントの一人からF3協会に対して、「混走案が出たと聞いたがエントラント側は誰もそれを望んでいない」「FRはエントラントの総意としてタトゥースに決まったと聞いたが、私の知る限り誰もタトゥースを望んでいない。国内では童夢が開発をスタートしているのだから童夢で良いのではないか」との質問があり、その人が「タトゥースが良いと言ったチームは手を挙げてください」と言ったところ、誰も手を挙げなかったという事です。
F3協会=輸入代理店の真っ赤な嘘がバレた瞬間でしたが、その後、その輸入代理店から「弊社はタトゥースを扱いません」という意味不明のリリースが発信され、また、その後、エントラント側からJAFに「F3協会とエントラントの総意として、この案が出されたと聞いたが、少なくともエントラントの総意ではないので当該書類は撤回するように要望する」と申し出て認められたという事なので、つまり、虚偽の申請であったことが明白となった訳です。
その結果を受けて、7月9日にJAFでミーティングが持たれ、JAF、JRP、F3協会、童夢によって下記が合意されました。
FRはF3協会では関与しない
FRは童夢が来期コントロールする。
ここでちょっと誤解が無いように説明しておきたいと思いますが、私自身は、「童夢はレーシングカー・コンストラクターなんだからレーシングカーを作り続けなくてはダメだ」と念仏のように繰り返し童夢の高橋社長の尻を蹴り続けてきましたし、なかなか動こうとしない高橋社長を罵り続けてきましたが、この数年間、気配すら感じる事が出来なかったので、さすがの私も諦めて、2019年に入ってから相談役も退任して全く関係が無くなっていました。したがって、この文書も、昔レース界に居た一人の隠居老人のぼやきであり、童夢とは全く関係の無い主張であることにご留意ください。
それにしても、あれだけ、「レーシングカーを作れ」と尻を叩き続けてきた挙句のレース界からの拒絶反応は、私としては、何ともバツが悪いと言うか、穴があったら入りたいと言うか、私もそれなりの逆風は感じていましたしJAF-F4の時の愚かなバッシングには辟易していましたが、ここまで悪意に満ちたコンストラクター潰しがまかり通るとは想像もしていませんでしたから、レーシングカーを作れと言い続けてきた高橋社長には、ひたすら謝るしかありません。
技術面での考察
日本の自動車レース史においても重要な足跡を残してきたF3レースが、一私企業の営業トークに惑わされて違う道に迷いこもうとしている時に、それを正そうとする業界関係者もほとんど現れませんし、その上、F3協会=輸入代理店の言い分を鵜呑みにして賛同擁護する業界関係者も多く、海外に日本のレース資金を流出させることに追い風が吹き、日本のレース産業の振興と技術力の向上に向けての努力に逆風が吹く風潮には違和感を禁じ得ません。
F3協会がSFLに決めた最大の理由を「FRは遅くてSF(Super Formula)のステップボードにならないから現行F3を継続すべき」としていますが、FRがSFへのステップアップ・カテゴリーであるのならSFとの性能差は必然ですから、つまり、適正な遅さが必要な事は論を俟ちません。また、フォーミュラ・レーシングカーというものは金と速さは正比例しますから、高いと速いし安いと遅いというだけの話であり、ステップアップ・カテゴリーには予算を下げてハードルを低くするという役目もある訳ですから、速さだけではなく財布との相談も重要です。
何よりも、日本にレーシングカー・コンストラクターが存在するのですから、どうせフォーミュラ・リブレに逃げるのであれば、FRをベースに高性能車を作ることもできますし、どうしても現行F3にHALOを付けたいのであれば、現行のモノコックに後付けできるHALOのような物も開発可能ですから、技術者を交えて、もっと掘り下げたところから総合的に検討すべきです。
ちなみに、現行F3にHALOと同等の効果が得られるデバイスを後付けするとしたら、少し重くはなりますが単価は450万円くらいで供給できますが、技術者を交えてまともに検討されることはありません。
どうして技術者を排除してしか話が出来ないのかと言えば、この開発技術を持たない人たちによる外国のレーシングカーを輸入することを前提とした日本の自動車レースの利権構造は、そこに開発技術を持ち込んだとたんに既得権益が崩壊してしまいますから、当然、排除の論理が先行してしまい、結果、いつまでも、既存の車両とパーツを組み合わせて遊ぶミニ四駆の範疇から逸脱できない訳です。

これは、フロントスクリーン付きで検討していたHALOもどきのポンチ絵ですが、これを提案すると「また童夢だけが儲けようと思って」と言われますが、いやいや、そうでなければ海外に資金が流出するだけですから。
SPEC.一覧表
関連のカテゴリーの車両のSPEC.を比べてみます(価格はエンジン含む)。
現行2019年F3 | SFL (アップデート版) | SFL(新型F320) | FR(F111/3) | FIA-F3(2019~) | |
車重(含ドライバー) | 585kg | 590kg | 590kg | 650kg | 690kg |
パワー | 230ps | 230ps | 230ps | 270ps | 380ps |
パワーウエイトレシオ | 2.5 | 2.6 | 2.6 | 2.4 | 1.8 |
全長 全幅 WB | 4351mm 1845mm 2800mm |
4351mm 1845mm 2800mm |
4351mm 1845mm 2800mm |
4900mm 1850mm 2950mm |
4,620 mm 1,872 mm 2,880 mm |
タイヤサイズ | Fr 200 13" Rr 240 13" |
Fr 200 13" Rr 240 13" |
Fr 200 13" Rr 240 13" |
Fr 230 13" Rr 300 13" |
Fr 230 13" Rr320 13" |
価格 | 約2300万円 | 現行F3+ 1300万円 | ? | 約1200万円 | 約3000万円 |
育てる
私が童夢の経営者だった時代にも、私が何かを提案するたびに「また童夢だけ儲けようと思って」と言われたものですが、本格的なレーシングカーを開発するためには、大型の風洞を始めとする大掛かりな開発設備や優秀な技術者や外注先などのインフラを構築しておかなくてはなりませんし、それが、例えFRのような入門用のフォーミュラであっても、生産体制まで整えるとなるとかなりの先行投資が必要となります。
それでも、平均的に、ある程度の業務量が見込めれば手の打ちようも出てきますが、現状でも輸入車に頼る日本のレース事情では、100歩譲っても、将来において儲かる環境を構築するための布石を打つ程度の話であり、「童夢だけ儲ける」ようなユートピアは、まだまだ見果てぬ夢に過ぎません。
また、童夢がずっと言われ続けてきたことは海外のコンストラクターとの格差です。やれ、ローラは創業60年で歴史が違うとか、ダラーラの設備は童夢の比じゃないとか、タツゥースの生産台数は何百台に及ぶとか、つまり、格が違うとか技術レベルが違うと揶揄される訳ですが、歴史で言えば、ローラは表面的にも3回は倒産しており中身は刷新されていますから続いているのは暖簾だけですし、ダラーラの創業は1972年で童夢が1975年ですから大差ありません。生産台数は、主としてワンメイクを生産しているコンストラクターは増えて当然ですが、ワンメイクのレーシングカーは安く量産することだけがノウハウのバッタ商品のようなものですから、シャシーの優劣を競うルマンカーなどと比べられるのは笑止です。
確かに、ダラーラの設備は素晴らしく充実していると思いますが、私から言えば、そのかなりの部分は日本から流出した資金で出来ています。
なんだかんだと理由を付けながら、絶えず日本のレース界の資金を海外に流出させてダラーラに貢いできた結果の充実した設備を絶賛されて感心するほど私も心が広くありませんし、日本のレース界が、こぞってダラーラに貢ぎ続けながら童夢をけなす歪んだ構造も理解できません。
これほどドライバー育成を錦の御旗に振り回している日本のレース界が、コンストラクターとなると、一変して、育てるどころか、寄ってたかって踏みつぶそうという風潮には訳があります。
反日の日本のレース界
このようなレース界の反日(反日本製レーシングカー主義)の傾向はどこから生まれてきたのでしょうか?
もっぱら、私の性格に由来すると言われがちですが、あえて否定はしません。私は私の欲望の赴くままに周囲を気にせずに唯我独尊にレーシングカーを作り続けてきましたし、金を食うだけで何も生み出さないレーシングカー作りに他人の金を使う事も避けてきましたし、周囲も見ていませんでしたし、聞く耳も持っていませんでしたし、けっこう自分の殻の中で自己完結していたところがありましたから、何も気になりませんでした。
しかし、やや歳も食って、人並みに世の為人の為みたいな気持ちが芽生えてきた頃から、「してあげる」というような押しつけがましい気持ちも出てきますし、そうなると反応も気になりだしますから、晩年になって初めてレース界の人達の反日の姿勢が気になりだしたというところです。
最大の原因は、日本のレース界がドライバーOB達の引退後の飯のタネになっている為に、基本的にドライバーOBの都合だけが業界をけん引しています。また、自動車メーカーのサラリーマン担当者にとっての身近なスターであるドライバーとは引き合う関係にありますから、ドライバーがレースに見識のない担当者の拠り所となり、ここに強固なスクラムが組まれます。
そのドライバーOBに出来ることはドライバーの育成だけですし、自らの責任問題となる勝敗を避けたい自動車メーカーの担当者はドライバー育成に逃げやすいので、結果、ドライバー育成だらけになりますが、そのドライバーOB達にとって、自分たちが乗るレーシングカーを作るコンストラクターの存在は、ある意味で脅威です。
私が社長をしていた頃の新年会では契約ドライバーは末席でしたが、高橋社長になってからは主賓扱いになりました。その時、私はスピーチで士農工商になぞらえて「私の頃は、社長、設計者、チーム、ドライバーだったけれど、今は、社長、ドライバー、チーム、設計者になっているようだ」と揶揄していましたが、事実、私にとってドライバーは雇い人に過ぎません。
そんなコンストラクターが幅を効かせるようになると相対的にドライバーの立場が悪くなるのは必至ですから、本能的に排除の論理が働くのでしょう。結果、日本のレース界の目的は、ドライバーOBの飯のタネになる新人ドライバーの育成だけに特化されていきます。
もう一つの原因が、かのレーシングカー輸入代理店の我田引水な営業方針です。基本的に、一私企業が自らの利益の為に努力するのは当然ですから、やり口は気に食わないものの、責めるような話ではありませんが、問題は、その単純な手口も見抜けないで翻弄され続けるレース界の脆弱さにあります。
F3000が事実上のレイナードのワンメイク状態になっていた頃、その輸入代理店がアップデート・キットを800万円で売り出すと発表しました。ワンメイク状態ですから、みんなが買わなくても同じ、みんなが買っても同じ条件ですから、パドックでは「あんなもの誰が買うんだ」と呆れていたところ、この輸入代理店と近しい関係のチームが購入した為に、結局、10チーム以上が買うことになりました。
F3000が事実上レイナードのワンメイクになっていた頃にレイナードが倒産してしまいました。それを理由に、来期からローラのワンメイクにしようという話が持ち上がりましたが、それはすなわち、全てのチームがローラの新車に買い替えなくてはならないという話でしたし、儲かるのは輸入代理店だけでした。
当時、ヨーロッパは既にローラのワンメイクに移行していたのに日本のF3000は独自路線をいっていましたから、急にローラのワンメイクに移行しなくてはならない理由は何もありませんでしたし、その年にレイナードの新車を購入したチームも少なくなかったので、私は、レイナードに適正なハンディを付けてでも混走させて自然な移行を待つべきだと主張しましたが、さしたる議論もないままに1年しか使っていないレイナードは廃棄され、全てのチームが新車の購入を余儀なくされてローラのワンメイクになってしまいました。
例を挙げればキリもありませんが、過去の事例を紐解けば、日本のフォーミュラ・レースにおいては、どのような理由で何がどうであろうが、最終的には輸入代理店が儲かるように仕組まれていることが鮮明に浮き彫りにされてきます。
当然ですか、この輸入代理店にとって最も忌避すべきは国産レーシングカーの台頭、すなわち童夢の活躍でしたが、本来は、童夢もコンストラクターとして戦略的な営業展開をすべきところ、私は、「日本の自動車レースの発展のためには日本の自動車レース産業の振興が不可欠」と正面から正論をぶつけるだけでしたし、理解しないレース界を小バカにし続けてきましたから、土台、営業力において輸入代理店の足元にも及ばず連戦連敗が続いていました。
このように、ドライバーOBの糊口を得るために、また、一私企業である輸入代理店の商売の為に、共通の敵であるレーシングカー・コンストラクターを排除する傾向が定着していった事により、日本のレース界に反日がはびこるようになってきたのだと思われます。
本当の反日
私はプロスポーツが嫌いです。日本という国にとって何の役にも立たないからです。
詳しい理由は、私のホームページである「林みのるの穿った見方」のコラム「スポーツ亡国論」で説明していますが、ここでは、直近の例で説明しましょう。
韓国の理不尽な要求と暴走を少しでも抑え込めたのは、スケート選手が氷の上でクルクルと回ったからでも無く、屈強な男たちがボールを持ってぶつかり合ったからでも無く、日本の技術に頼らざるを得ないフッ化水素の輸出をコントロールしたからであり、日本の技術力のおかげです。
それなのに、我が日本たるや、国民栄誉賞はアスリートと芸能人しか授与されませんし、たまに脚光を浴びる科学者は外国の賞であるノーベル賞の受賞者ばかりですし、科学技術研究費は中国の半分にも届きませんから優秀な頭脳の流出が止まりません。
このような成り行きが自然な流れなのか誰かの思惑によってコントロールされてきた結果なのかは知る由もありませんが、74年前、あれだけの主要都市を絨毯爆撃されて多くの一般市民を殺戮されたり原爆まで落とされたのに、その後のGHQによるWGIPや3S政策などの作為的な施策によって、日本人は瞬く間にアメリカに傾倒していった現実がありますし、特別な車による作為的なプロパガンダによって日本国民が祝日に国旗を掲揚したり車に日の丸のステッカーを貼ることを恥じるような風潮を作ることにも成功していますから、コントロールされているというのも、あながち奇想天外な話とも思えません。
翻って、日本のレース界に目を転じれば、このような日本の技術力を棄損させて外国の技術力を向上させるという傾向も、日本人に潜在的に植え付けられてきた日本の発展振興を妨げる反日思想の表れなのかもしれません。道理で、私が愛国心から日本の技術力の向上を叫んでもレース界の反応は冷ややかでしたし、外国に金を流して技術力を向上させるという話はスムーズに進むわけです。
余談ですが、ここで愛国心を持ち出すにも勇気がいりますよね。日本人が自分の国を愛する事を表明するのに躊躇があること自体が、そもそもの問題なんだろうと思っていますし、そういう風潮と日本のレース界の反日(反日本製レーシングカー主義)問題は無関係ではないと思っています。
純粋なスポーツへ
レーシングカーを開発するには、かなりの先行投資が必要ですし、普通、その投資の回収は困難です。FRのようなワンメイク・シャシーでも億単位の予算が必要ですから銀座のクラブなら1000回は通えます。私の引退パーティの時のお土産にした「童夢の奇跡」をペラペラとめくりながら、こんな環境下、よくぞこれだけのレーシングカーを作り続けてきたものだと、我ながら、正に奇跡以外の何物でもなかったと再認識しています。
それにしても、この度のFRの件を目の当たりにした後に、もう、童夢にレーシングカーを作れとは口が裂けても言えなくなりましたし、童夢が再挑戦するかは私には解りませんが、では、首尾よく、ドライバーOBと輸入代理店の思惑通りにレーシングカー・コンストラクターが駆逐されてしまった暁には、日本の自動車レースはどうなっていくのでしょう?
開発技術と言うスキルを失い、既製品の輸入車とアスリートによる純粋なスポーツとして続いていく事になるのでしょうが、その、語源をたどれば「娯楽」から「さぼる」まで遡るスポーツと称する競技は、先に述べたように娯楽以外に何の役にも立たない非生産的な世界ですから、日本の自動車レースにおけるレーシングカーとは、テニスのラケットやゴルフのクラブと同類に単なる道具と化していく事になるでしょう。
ドライバーは、日本人宇宙飛行士と同じように外国製の宇宙船に便乗しているに過ぎず、その裏で先進の技術で宇宙船の開発をしている人たちとの乖離は取り返しようも無いほどに遠ざかってしまい、いずれ、彼らが手の届かない遥か彼方に居る事に気が付くことになるでしょう。
でも心配はいりません。先進の技術は失いますが、近年、台頭してきた東南アジア諸国のモーター・スポーツも、同様に技術はヨーロッパに頼った形で発展していますから、これからは、彼らが対等な仲間として受け入れてくれるでしょう。脱欧入亜と言うところでしょうか、150年前に回帰しましょう。
COLUMN / ESSAY / LETTER
Nov.21 2019「ブラジャーVSレーシングカー digest版」
それでは、これから、恐ろしくて悍ましくて欲ふかくて愚かで嘘しかなくて悪意に満ちた地獄のようなノンフィクション怪奇ホラーの世界にご案内しますが、この地獄には、嘘しか言わない鬼と間違った事しか言わない閻魔様がのさばっていますから常識は通用しません。くれぐれも騙されないように注意しないと出口にたどり着けませんから、知性と理性で正しい方向を見極めながらお進みください。では、無事のお戻りをお待ちしています。
それは、社内では「遺作プロジェクト」と称されていましたが、私は「童夢と林の最後の夢」と名付けていた、日本の自動車レース産業に改革をもたらすような稀有壮大な計画であり、営利を目的としない、私の資産の全てを売却した資金を投入する最後の大博打でした。
内容を説明すると長くなりますので、詳しくは、コラム「ブラジャーVSレーシングカー副読本[童夢と林の最後の夢]」を参照してください。
岡本先生は、次に控える洋子の母である塚本良枝氏から子供たちへの相続対策を洋子に指導し、結果的に、11年後に良枝氏が亡くなるまでに、相続した約26億円のうち15億円を消し去り、相続財産を約11億円に圧縮することに成功しています。本件に関しては全記録が岡本先生の事務所に保管されていたために、その手口の詳細は明白です。
これに味を占めた洋子が私から洋子や息子への相続対策を言い出すのは流れとしては自然でしたから、塚本家の相続対策に遅れること4年後に、同じ岡本先生の指導による塚本家と全く同じスキームの相続対策が始まりました。
周囲の者には周知の事ですが、大げさでは無く、私は終始、会社の実印も帳簿も決算書も見たことがありませんし銀行と話をしたこともありません。私は、ひたすらやりたいことに向けて突っ走っていただけで、運営に関しては、基本、岡本先生と専務にお任せでしたから、そんな私に、このような複雑な相続対策を考えられる訳も無く、詳細は全く理解していませんでしたが、子供への相続対策なのに名義を洋子の会社に移行する理由として、その後、段階的に洋子の会社の株を息子に名義変更していく事により相続税も贈与税も発生しないで息子に資産が渡ると聞いていました。
その後も、何回か下鴨の家(それまでに住んでいた家)において共同でパーティを催すなど中途半端な関係が続いていた2012年の秋口、まだ、洋子と離婚についての話し合いも無いままに、突然、洋子から差し出された手紙には、「離婚する。岡本先生は排除する、弁護士を入れる、絶縁。出入り禁止」というような信じられない内容が記されていました。
その岡本先生を排除すると言うのですから何らかの魂胆があると考えるべきでしたし、今までの相続対策の共同正犯ともいえる密着ぶりから鑑みて、岡本先生に、あれだけ内情を知られ、あれほどお世話になっていた洋子の立場から言い出せる言葉ではありませんでしたから、全てが、あまりに不自然でしたし有り得ない出来事でした。
しかし当時は、完全に洋子を信用していましたし、同じく完全に信頼していた岡本先生も何も言わなかったので、有り得ない出来事とは思いつつも、弁護士を入れるのは溺愛する子供の親権を確実にするためだとくらいに思って流してしまいました。
私が購入費用を負担して洋子には何の負担も無く名義だけを借りていた童夢関連の株を「お金を貸して返してもらっていないから、くれたと思った」という有り得ない虚偽の理由をでっち上げて「私の物」と言い出して取り込んで返さなくなっています。2件の不動産に関しては、相続対策を目的に、本来は私や童夢の所有であるべき不動産を、洋子の会社が当該不動産を担保に借り入れして購入し、童夢が土地を借りた形を取って相場の3倍ちかい高額の清算資金を支払い、10年間で精算できるスピードで処理する計画でした。これ以外に方法はありません。洋子は、有り得ない理由を付けて「私の名義だから私の物」と言い出して取り込んで返さなくなっています。
惜しくなって返したくないのに加えて返せない理由もありました。洋子は、8年間以上に亘って童夢から支払われてきた不動産の清算資金である月額250万円を銀行に返済せずに、長らくに亘って全く収入の無かった自身の会社の経費に流用していましたから、つまり息子に相続させるはずの土地も残りますが同額の借金も残る訳で、相続対策はどこへやら、私は長年に亘って洋子の会社の維持費を払い続けていただけの結果となっていました。
そんな時に、私が「童夢と林の最後の夢」をぶち上げ会社等を売却すると言い出したものですから、自分の名義になっていた私の資産を返さなくてはならなくなる上、長年に亘り流用を続けていた月額250万円が途絶えて会社が維持できなくなりますし、不動産を清算するためには、それまでに使い込んだ約2億5000万円を銀行に返済しなくてはなりませんから、現実問題として、返したくないし返せない洋子は、兄の能交に相談して、かの超大物の竹村弁護士を紹介してもらい、私の資産の収奪作戦を開始します。
その後、岡本先生の仲介を逃げ切り、弁護士間での交渉も強欲を貫き、時間切れとなって「童夢と林の最後の夢」が破綻した後に裁判にもつれ込むものの、洋子の嘘八百の主張が全て認められると言う異常な判決により全てを奪われてしまいます。
洋子が支出した金額 貸付でも投資でも贈与でもなく、支出と同時に等価の不動産を取得して資産となっていますから、2件とも全くリスクの無い不動産の購入です。 | 洋子が懐に入れた金額 |
米原の土地の購入費用/2億円 | 東レへの米原の土地の売却代金/2.5億円 童夢からの米原の土地の清算費用/1.8億円 |
宝ヶ池の不動産の購入費用/1億円 | 宝ヶ池の不動産の売却代金/2億円 童夢からの宝ヶ池の不動産の清算費用/1億円 |
負担無し | 童夢カーボン・マジック株売却益/3億円 |
負担無し | 童夢株/25% |
計 /3億円 | 計 /10.3億+株の25% |
幸いにも、途中から裁判に持ち込んだおかげで、洋子の主張、つまり、まさに洋子の口から出た言葉が閲覧できる公式記録として残されていますから、本書では、その洋子の言葉を太字部分で表しています。それらの、出鱈目で二枚舌で悪意と強欲と悪口だけの主張を読んでいただければ、たちどころに洋子の正体が見えてくるはずです。
たぶん洋子は竹村弁護士が書いたもので私は知らないと言い訳すると思いますが、残念ながら、2016年5月20日の京都地裁の法廷で、洋子本人の口から嘘をつかないことを宣誓した後に証言していますから、文章を誰が書こうが洋子自身の主張であることは明白であり言い逃れは出来ません。()内は注釈。
宣 誓
良心に従ってほんとうのことを申し上げます。知っていることをかくしたり、ないことを申し上げたりなど決していたしません。以上のとおり誓います。(大嘘) 氏名 塚本洋子(要約)
竹村弁護士からの質問
弁 :林さんから株をあげると言われたんですか?
洋子:はい。(嘘)
弁 :何でくれると思いましたか?
洋子:何回かお金を貸したことがあるので、くれるのだと思いました。(嘘)
弁 :DCM株について林氏より話がありましたか?
洋子:この株を持っていたら君は大金持ちになるよと言われました。(嘘)
弁 :林氏より相続税対策について聞いたことはありますか?
洋子:ありません。(嘘)
弁 :岡本先生から聞いたことはありますか?
洋子:ありません。(嘘)
以下、延々と嘘が続きますが省略します。しかし、この中に面白い質問がありました。
弁 :本日は岡本先生が傍聴にいらっしゃっていますね?
洋子:はい。(本当)
基本的に、洋子の主張の全てが嘘ですから、全ての主張に、唯一人の証人も、たった一つの証拠も示せない、全くの絵空事の羅列です。いや、信じてもらえないと思いますが、その内、わかります。後に例を挙げますが、完全に証拠をもって嘘と解る主張がいくつも出てきますから、後は、それが氷山の一角なのか? 全てが嘘なのか? という程度問題であり、基本的に嘘つきであることは実証されています。いや、信じてもらえないと思いますが、その内、わかります。また、洋子の主張には嘘八百の品性下劣な悪口雑言が並べ立てられていますが、これは、裁判官の心証を操作して私に不利な環境を作るための印象操作と呼ばれる子供だましのテクニックです。しかし、お読みいただくと解りますが、その全てが訴訟内容とは全く関係のない単なる誹謗中傷ばかりであり、しかも嘘です。いや、信じてもらえないと思いますが、その内、わかります。
しかし、その頃の洋子は様々な場面で「不動産は私の物だけど株は返す」と言っていましたから、この竹村弁護士の言いがかりは、すこぶるおかしな話でした。なぜならば、私は洋子が弁護士を入れてくる以前より岡本先生を通じて「不動産は差し上げる」と伝えていますし、洋子も「岡本先生から宝ヶ池と米原の不動産は洋子ちゃんの物で良いと聞いている」と主張していますから、普通に考えれば「不動産はありがとう、株は返します」で済む話であり、ほら話を捏造する必要もありませんし弁護士を入れる必要すらありませんし紛争にもならなかったはずです。
しかし洋子は、全てを知り尽くした岡本先生には絶対に株の売却益も欲しいとは言えませんし、仲介の席に着いてしまったら「株は返す」という条件で直ちに決着がついてしまいますから、驚くべきことに逃げ回る作戦に出ました。
逃げ回らなくてはならなかったか理由は他にもあります。その頃、私は東レとM&Aについて交渉中でしたが、その時点で洋子が「株も私の物」と言い出したら私は確実にM&Aを中止したでしょうから、株の売却益まで狙う洋子はM&Aのクロージングまでの2ヶ月弱の間(ちょっと遅れて4ヶ月後になりました)、魂胆に気づかれないようにあらゆる交渉を回避する必要があったからです。それにしても、あれほど密接な関係だった岡本先生が長期にわたって洋子と会えない時間が続いていた頃の不思議な状況は未だに謎です。
それだけではありません。当初の洋子の「株は返す」という言葉には重要な仕掛けが組み込まれていました。その言葉を信じていた私は不覚にも洋子の名義のまま東レに売却してしまったので、洋子名義だった土地や株の売却益の6億円あまりの現金が洋子の口座に振り込まれましたが、洋子は返却するどころか、その瞬間から「最初から株も私の物と言っていた」と言い出して返さなくなってしまいました。見事すぎる策謀です。
しかし、「株も私の物」と言いだした以上、事実を知る岡本先生には合わせる顔もありませんから、その後も逃げ回り続けるしかなく、仲介のスタートから1年間、全く顔を合わせないという異常事態となりました。
ちなみに、洋子は公式な主張の中で、「株は返す」→「返すと言ったが気が変わった」→「最初から私の物と主張している」と三段階で変遷していますから、これだけを見ても、どれだけご都合主義の嘘つきかお解りになると思います。
洋子さんの節税対策も同様の手法で行っているため、洋子さんも節税対策目的で林さんの財産が洋子さんや息子さんの名義になっていたことを十分に理解・認識していたはずです。
裁判で問題になっている童夢関連株式について、これらは林さんの実質的所有です。離婚後の財産処理としては、これらの林さんに実質的所有があるものについては林さんに名義を戻さなくてはいけません。
離婚届は2012年末に受け取り、2013年2月に林さんに渡しました。
洋子も、全てを知り尽くした岡本先生からは逃げ回るしかありませんでしたが、一方で下鴨の土地の買取りという避けて通れない課題を残していましたからジレンマに陥っていたところに、私が三下の弁護士に変えてきたのですから、洋子と竹村弁護士は小躍りして喜んだことでしょうし、喉に刺さった骨が取れたような気分だったでしょう。竹村弁護士からみればK弁護士など赤子の手を捩じるようなものでしたから、これから、ハイエナと子ウサギの戦いが始まります。
洋子は、その数日間に2件の不動産や数件の株など10億円あまりの資産の処理が「全て解決していた」と言い出している訳ですが、弁護士が介入しているのに関わらず、この数日間に、誰も洋子側と会った事実も記録も無く、アポイントのためのやり取りの記録の欠片も無く、協議内容や結果を示す紙切れの一枚さえ存在しませんから、正に、影も形も無い絵空事とはこのことであり、よくぞ、こんな根も葉も茎も幹もない嘘を言い出す気になったものです。公園の芝生で犬のうんこを踏んだような気分になりました。
人生をかけて築いてきた「童夢」を全て売却して挑もうとしていたプロジェクトが、多くの売却益を取られて壊滅してしまったのですから、もう、そこには何も無く、大変な落胆と喪失感と脱力感と虚無感と激しい怒りと悔しさの入り混じった複雑な感情が渦巻きながらも、しかし私は、洋子の、あまりに常軌を逸した強欲な所業が許せませんでしたから、これまた、致命的な間違いの元となりましたが、洋子に、お灸をすえるつもりで司法に判断を委ねることにしました。
私の致命的な判断ミスが続きますが、知り合いには「裁判は弁護士次第だから慎重に選べ」と言われつつも、基本的に私は、真実は一つしかないのだから弁護士の力量や法廷戦略によって結果が変わったりする事こそがおかしいし、こんな白黒がはっきりした事案で敗訴する訳が無いと思い込んでいましたから、無知蒙昧というか浮世離れと言うか、まるで芦屋に住んでいた老人が急にフィリッピンのスラムに迷い込んで身ぐるみ剥がされるように、次々と大切なものを失っていきます。
結果、5件の全てが敗訴となり洋子に預けてあった私の資産の全てを収奪されてしまいましたから完敗でした。なぜ負けたのかと言うと、証人も証拠も無い洋子の100%を嘘で固めた出鱈目な主張を裁判所が全て認め、私の証人も証拠もある主張が全て無視されたからですが、はい、「現在の高度な司法制度の中で、そんなおかしな出来事は有り得ない」という御意見はもっともですし、あってはならない事ではありますが、私も、ついこの間までは同じ意見でしたから司法を信じて訴訟提起に踏み切ったのであり、現実の裁判が嘘つき大会であるとは夢にも思っていませんでしたから、信じて頂けないのは当然だと思っています。
一般人よりも遥かにレベルの低い法律知識しか持たない私が、この奇妙奇天烈な出来事をどこまで正確にお伝えできるか自信がありませんが、それにしても今回の裁判は異常でしたし、こんな出鱈目がまかり通っていたら、どんな詐欺事件も合法化できますし裁判所は詐欺師の片棒を担ぐことになりますし冤罪の量産工場になってしまいます。明日は我が身という言葉もあります。このような、裁判官や弁護士などの法曹界という村社会の人達の馴れ合いの中で杜撰に処理されていく裁判の実態を、知っているのと知らないのとでは貴方の運命が大きく変わることも有り得ますから、本書を読んでおいたら、何らかの紛争に巻き込まれた時の対処が変わり損害が防げるかもしれません。
では、私の実体験の中から要点をビックアップして「洋子の正体」と「裁判の実態」を詳らかにしていきたいと思いますが、まだまだ洋子の嘘は山のようにありますから、詳しい内容については拙著「ブラジャーVSレーシングカー(第三書館)」を参照してください。
①「共有物分割請求事件」は、塚本幸一氏没後、独り暮らしになった義母の面倒を看たいという洋子からのたっての願いで、塚本家の費用負担で建てた豪邸に半ば強制的に転居させられました。しかし、そこには肩身の狭い状況もあったので、岡本先生に善処をお願いした結果、私が所有していた2件の不動産と下鴨の家の1/2の土地を等価交換して取得しましたが、離婚に際し、洋子は下鴨の家を処分する為に、この私の1/2の土地を買い取っておく必要が生じていました。私は当初、義母の為という取得理由から15年前に塚本家が購入した1億5000万円(実勢価格2億4000万円)で譲ると、かなり奇麗ごとの提案をしたつもりでしたが、何と!洋子は、感謝するどころか、それを1億円以下に買い叩きに来ました。
では、その地上げ屋もびっくりの悪質極まりない手口をご紹介しましょう。その①は、14年前(紛争当時)の「等価交換」で損をしているから、その分を補填して安く売れと言う主張ですが、しかし、当時の「土地公課証明書」などの証拠が残っており私の不動産の方が高かった事が証明されていますから、単なる言いがかりであることは公文書により明らかです。
加えて、当時、洋子は交換した土地を私の知らない友達に破格の安値で売っていますが、今になって、その時の損失を私に補填しろと言いだしたり、また、等価交換に含められない家屋を別途に買わされたと言いがかりを付けてきていますが、この代金は洋子が払ったことにして私に内緒で運用していた私名義の口座を迂回して自分の懐に入れており、私が指摘したら思い出したのか二度と言わなくなっています。よくぞ、これだけのほら話を捏造できたものだと感心しますが、その他にも嘘は山積みです。
その②は「使用貸借契約」です。本件の場合、既に義母の家が建っている土地を取得した訳ですが、その建物の所有者の義母から地代をもらっていなかったから、義母および相続した洋子は、その建物が消失するまで(鉄筋コンクリートですから数十年)土地をタダで使い続けられるという法律です。まさかと思いましたが実際に運用されています。洋子はその法律を楯に買い叩きの材料にしてきましたが、自分の都合で転居させておいて、一緒に住んでいる義母に地代を請求しなかった事を理由に「タダで使い続けられる」と言い出すのですから人でなしとしか言いようがありませんが、効果は顕著で判決にも影響していますし、私は「使用貸借契約」を持ち出されたおかげで数千万円の損失を被っています。
その③は、インチキ不動産鑑定です。洋子は裁判所に1億円の鑑定結果を提出しましたが、という事は、塚本家が15年(紛争当時)前に1億5000万円で購入した土地が、現在、1億円にまで暴落したということになりますが、有り得ますか? 有り得ませんよね? それだけの話です。
私が洋子の親孝行に協力したおかげで義母は家族に囲まれて最高に幸せな余生を送ってくれたと思っていましたし、義母から地代を取るなんて発想は欠片も無かったのに、それをネタに値切りに来るのですから、私は、未だかって、ここまでの悪意と強欲に接したことがありません。
N弁護士は値切り防止策として「共同所有になっていた下鴨の土地を2筆に分けろ」という訴訟を提案しましたが、今から考えると、私がこの土地を売らない限り洋子は下鴨の不動産の処分も出来ませんから、どちらかといえば交渉のカードとして有効だったのに、結果、逆手に取られて裁判所からは相場より数千万円も安く売却するように命じられてしまい、全く意味のない藪蛇な訴訟となりました。
②「不当利得等返還請求事件」は、洋子が離婚後も下鴨の家に長期にわたって住み続けていましたが、洋子が「使用貸借契約」を言い出しましたから、地代を請求しておかなくては、ますます「使用貸借契約」を裏付けてしまう事になるので、対抗処置として地代の請求をしておかざるを得なかった訳です。一審では勝訴しましたが逆転敗訴となりました。
③「不当利得等返還請求事件」は、相続対策の為に洋子の名義にしていた童夢発祥の地である宝ヶ池の不動産を返せと言う裁判ですが「私の物」と主張して返しません。私から洋子に1億円で売却した形を取り、洋子は今までに童夢関係から家賃収入等の名目で既に9170万円の収入を得ていますが、ところが、「私の物」にしては、この童夢から支払われていた空家賃の説明が付かないので、とんでもない絵空事のストーリーを捏造して家賃の正当性を主張してきました。
いわく、「洋子氏は、少しでも夫であった林氏の会社である童夢のファンが増えたら良いと考え、レーシングカーを飾ることを前提とした店づくりをした」とか「林氏からCaféを開店するように命じられた」等という有り得ない大嘘を言い出しましたが、実際は、洋子がヨン様と呼んでいたイケメンシェフに入れ込んで開店してやったのは周知の事実でしたし、当時、改装を請けていた設計士も工務店も「童夢の発祥の地だから童夢の車を飾りたい」と言い出したのが洋子であることを証言しているのに、よくぞこんな嘘を言い出せたものだと肝の太さに感心します。しかし、構造的には、オヤジがホステスに入れ込んで店を持たせてやるのとまったく同質の話でしかありません。
洋子にシェフを引き抜かれたレストラン「スワン」オーナー 藤澤圭子さんの「陳述書」
いろいろ聞き及ぶに、だんだん話がエスカレートしていっているような感じは受けていましたし、洋子さんのカフェ・レストランの話も、明らかにシェフへの興味が原因の話としか思えませんでしたから、すこし心配していたら、ある日、シェフから辞めたいとの話が来ました。その後、洋子さんのD+Cafeでシェフをやっているという話は盛んに舞い込んできましたし、洋子さんが「ヨン様」と呼んで大変にお気に入りだという噂も聞きました。
聞くところによると洋子さんは裁判で、林みのるさんの為にCafeを開店してあげたとか、林みのるさんに命じられてCafeを開店したとか主張していられるとのこと、驚いていました。
私の見る限り、一方的にシェフに熱を上げていたのは洋子さんでしたし、熱心に口説き落として京都まで引っ張っていったというのが実情だと思いますし、Cafeの為にシェフを必要としたというよりは、シェフの関心を引くためにCafeの開店を思いついたのだと思っています。
④「不当利得等返還請求事件」は、2004年、米原に童夢の新社屋を建設する為に購入した土地ですが、相続対策の一環として洋子が2億円で購入した形を取り、童夢から10年で清算できるペースで高額な地代を払い続け、洋子は今までに1億8000万円の地代収入を得た上で、今回の東レへの売却時に2億5000万円の売却益を懐にし、差益の2億3000万円の全てを取り込んでいます。宝ヶ池と全く同じスキームです。
N弁護士の自信あふれる提案により、洋子が童夢の役員であったから自らの会社に高額な地代を支払うのは利益相反に当たるので返金しろという訴訟を提起したものの一審で敗訴となりました。私は、洋子は童夢の役員として勤務した実態が無いので事実と異なることが気になり控訴を止めたために敗訴のままとなっています。
洋子は、この土地について、「童夢にお金がなかったから買って貸してあげた」等と有り得ない嘘を並べ立てて「私の物」と主張していましたが、同時期に、その土地の上に10億円以上の社屋を建設していた状況下、銀行は童夢が底地を所有しないことを危惧する事はあっても童夢以外が所有する事を望むはずも無く、実態を無視した全く有り得ない言いがかりです。加えて、「土地を所有する有力者に対して、洋子氏の名声と社会的信用を利用して購入の依頼に行かせた」と主張していますが、当時、工業団地の地主も斡旋していた米原市も童夢が購入することを嘱望していた状況下、「購入の依頼に行く」必要が全く無かったことは当時の資料からも明白です。
また、「童夢は1億5000万円で購入することを計画していたが、条件が合わなかったので洋子が値切りに行ったけれど、逆に1.6倍の面積の土地を買わされて2億円になってしまったから買って貸してあげた」という、意味不明かつ有り得ない主張をしています。しかし、「童夢が1億5000万円で購入することを計画していた」のならの、値切りに行く前の京セラの言い値は2億円くらいでなくては辻褄が合いませんし、「高くなって2億円になった」のなら、値切りに行く前は1億5000万円くらいでないと辻褄が合いませんが、そうであれば、もともとの童夢の予算で買えたことになりますから、パラドックスのような話で、このほら話のストーリー設定は成り立ちえません。つまり嘘です。
また、この主張内だけで破綻している単純な嘘として「童夢が以前に風洞用の土地を購入した時の坪単価は71,813円であるのに対して、今回の購入価格は29,252円であり、ここまでの価格差が簡単に埋まるはずもなく、洋子氏の交渉なくば購入価格が纏まるはずもなかったものである」と、洋子の尽力によって購入できたように言っていますが、この価格の一方は「法面(のりめん)を含む面積」であり、一方は「有効面積」です。少しでも不動産をお解りの方には、もうこれだけで手口は理解できたと思いますが、洋子は、この単純なインチキを多用していますから、うっかりミスではなくトリックとして利用しており、山林などの傾斜地でも使われる詐欺師の手口です。

⑤「株主権確認請求事件」は、相続対策を目的に洋子に一切の負担をかけずに名義を借りていた童夢の25%の株と子会社(DCM)の株の売却益を「もらった物であり私の物」と主張して返さなくなっていたので返せという訴訟です。
その「もらった」理由が、何と! 「何度も林氏に金を貸したのに返していないから(株などを)くれたのだと思った」という有り得ない嘘を言い出したものですから、何回も、金を貸したというなら証拠を示せと要求しているのに何も出てきません。嘘だから何も出せないのは当然ですが、私も、それなりにプライドをもって生きてきましたから、借金男の汚名を着せられる不名誉は看過できませんので、現在、「債務の不存在の確認訴訟」を起こしています。詳しい説明は次項に譲るとして、ここでは、私の資産を洋子にプレゼントする必要性も意味も理由も無いことを説明します。
一般論として、婚姻中の夫から妻に自らの経営する非上場企業の株を相続対策ではなくプレゼントすることに、一体、どのような価値や理由が存在するというのでしょう? もとより妻は株を第三者に売却する訳にはいきませんし、亭主が死んだときには自分の物になるのですから事前にもらっておく必要性もありません。今回のケースのように、方法によっては夫が死んだときに相続税を回避できるメリットがありますが、通常、それを相続対策といいます。
逆に、洋子の主張するように相続対策でなくプレゼントだとしたら、私は赤の他人になるかもしれない人に自身が苦労して育て上げてきた童夢という会社の株を差し上げていたという事になりますが、50%を超えたら経営権を奪われますし、離婚に至った場合、別れた後に洋子が再婚したり株を第三者に売却したとしたら全くの赤の他人が経営に介入してくる可能性もありますから、基本的に、これらの操作は婚姻関係にあることが絶対的な条件とした上での信頼関係と紳士協定によって成り立っている話であり、離婚した場合は原状復帰するのが筋であり常識です。
また、相続対策というのは私が死んだ時のための準備であり、それまでは、便宜上、洋子の名義を借りているに過ぎません。ある程度の規模の相続対策を考える場合、60代になってから慌てても合法的にできる相続対策はありませんから、だから早くから法律に抵触しない範囲で計画的に実施する必要がありますが、では、そんな若い時から会社の株や資産を妻にプレゼントしていたとして、途中で倒産しそうになった場合、当然に経営者は、この妻の名義に変えていた株や資産を活用して立て直しを図るでしょう。そんな会社が危急存亡の秋に、妻が「私の物だから使わせない」と言って会社が倒産してしまうなんて事が考えられますか? 会社が潰れてしまったら妻の名義に変えていた株は紙切れになってしまうのですから、論理的にも構造的にも、相続対策という理由以外に洋子に私の会社の資産の名義を移す事は有り得ませんし、私が生きているうちは私の差配下にあるのが当然です。
しかし裁判では、これらの洋子の虚偽の主張が全て認められて私の主張や証人の証言などは全て無視され、「当時50代であった原告が、自己の死後の相続税について対策を進める必要性を感じ実行していたかは疑問がある」として相続対策を否定してプレゼントであることを認めています。この、あまりにも一方的で偏向的な判決により、洋子は一切の負担もしていない名義株だけでも濡れ手で粟の3億円の売却益と25%の童夢の株を懐に入れています。
それでは、もう少し解りやすい嘘をご紹介しておきましょう。これでも洋子の言い分を信じる方がいるとしたら、それは、最早、信仰の対象のような領域の話ですから拝んでおいてもらうしかありません。
「金を貸したのに返していない」という嘘
洋子は株を「もらった」理由を、「塚本良枝氏も洋子氏も、今まで何度も林氏に金を貸したのに返していないから(株などを)くれたのだと思った」「童夢ないし林氏がその支払に窮したときに,洋子氏の貯金全都と息子の学資保険を解約して林氏に現金を交付したことがあった」「私の会社から林氏に貸し付けた」「林氏に渡した金員については返還を受けていません」等と有り得ない嘘を言い出しましたから、人一倍、借りを作ることが嫌いな私は激怒しました。
裁判所は、これらの嘘の羅列を「主張に不都合はなく信じられる」と、まるでオレオレ詐欺の被害者のように簡単に騙されていますが、私は、それなりにプライドをもって生きてきましたし、借金男の汚名を着せられる不名誉は看過できませんので、何回も、金を貸したと言うのなら証拠を示せと要求しているものの、これらの主張もまた、全く証拠の欠片もなく、ただ一人の証人もいない単なる創作話に過ぎませんから全く何も出てきません。絶対に泣き寝入りする事は有り得ませんから、現在、「債務の不存在の確認訴訟」を起こしています。
「生活費を、一切、負担していなかった」という嘘
前提として私は、結婚に際して洋子の父から「双方の財産は完全に分離しておくこと」という約束をさせられており、洋子が会社の経営を続けることも了承していましたから、基本的に、生活費は等分の負担をすることになっていました。
そのような状況下、私は、証拠をもって証明できる負担だけでも、お手伝いさんの給与や洋子への空給与の支給や大がかりな家屋の造作や電気製品の購入や洋子が頻繁に開催するホームパーティに使うワインの購入や、その他もろもろ、少なからずの負担をしてきました。
このように、適正に負担していた実態を示したら、途中から、「過半に届いていなかった」とか「応分の費用を負担していた事実はない」とか「家計費を分担して負担していたとは到底いえない」等と表現が変わってきましたが、「一切負担していない」とか「生活費は全く支払われていない」等と言う虚偽について訂正されていません。いずれにしても、だから亭主の財産を取っても良いという話には成りませんから、これも、印象操作を目的とした誹謗中傷に過ぎず、その上、嘘です。
ついでに言うならば、前述したように、洋子は私へ下鴨の自宅の地代を払って来なかったことを理由に「使用貸借契約」なる法律を持ち出してきて数千万円の損害を与えていますが、一方で、生活費を適正に負担していたにも関わらず支払っていないと言いがかりを付けてきていますから、つまり、払っていても貰っていなかっても非難の対象にしている訳で、何が何でも私に罪を擦り付ける徹底した狡猾さは、ある意味でリスペクトに値します。
「相続対策などしたこともない」という大嘘
洋子は、私の資産の洋子への移行が「相続対策とは知らなかった。もらったと思っていた」との主張を補強するために「相続対策とは聞いていない」「相続対策とは知らなかった」「相続対策などしたこともない」「岡本先生に相続対策など相談したこともない」等の有り得ない主張をしていますが、岡本先生の事務所に残されていた塚本家の相続関係の資料からも11年間に15億円も消し去るような大規模な相続対策を実践していたことは明白ですし、岡本先生が頼まれもしないのに他人の家の財産をいじくれる訳もありませんし、数知れず行われている相続対策の為の偽装の株の譲渡や贈与などの契約書には兄の能交や姉の真理の署名捺印も必要ですから、洋子が独りで文書偽造したのでないのなら家族の理解と協力は不可欠であり、つまり、家族がグルとなって相続対策に勤しんできた訳で「相続対策などしたこともない」は家族公認の嘘という事になります。
「洋子の母が相続対策をした」という嘘
洋子の相続対策の証拠は山ほどありますが、その一つに、当時、母が社長であった(株)良幸株の相続税を脱税するために私の姉など数名の名義を借りていた事実があります。その中には私の名義の株も有りますが、洋子によると「それは名義株だから私(洋子)の物」ということです。「私の物は私の物、貴方の物も私の物」という格言が思い起こされます。
私の姉の場合、洋子自身が1000万円の現金を抱えて川崎の姉の元に出向き、姉の口座から母に送金して姉が株を購入していますし、その時に売買契約書も交わしています。それでも洋子は「母と岡本先生が相談して決めたことであり、私(洋子)は母に言われたとおりに手続きを手伝っただけ」だから「相続対策なんかしたことが無い」との牽強付会な言い訳を試みていますが、死人に口なしとは良く言ったもので、亡くなった母親を引っ張り出して税金逃れの罪を押し付けようというのですから不心得も甚だしいく、母親も草葉の陰で泣いていることでしょう。それにしても、洋子の母が、そのような姑息な画策をするような人では無かったことは家族が十分に承知しているはずですから、これも、家族ぐるみの嘘ということになります。
「林氏が先に弁護士を入れた」という嘘
「林氏が弁護士を入れてきたから、私(洋子)も弁護士に依頼した」「2012年10月22日にM弁護士(最初の新人女性弁護士)から就任の通知が届いたので、私(洋子)も10月25日に竹村弁護士に正式に依頼しました」と主張していますが、基本的にどうでも良い話であり単なる印象操作に過ぎません。そもそも、まだ紛争も勃発していない弁護士も出現していない2012年10月6日の洋子からの手紙に「岡本先生を排除して弁護士を入れる」と書かれてある時点で、どちらが先もあったものではありません。
しかし問題なのは、この嘘を捏造した手口です。洋子からの書面に「2012年10月22日にM弁護士から就任の通知が届いた」との記述がありますが、実際には、M弁護士が内容証明で洋子に就任の通知を送ったのは2012年11月22日であり、内容証明ですから日付は特定されます。つまり11月→10月とした洋子の単純な誤記です。
洋子は、その自らの誤記に気が付かないまま、これは中傷のネタになると虚偽の主張をでっち上げている訳ですが、それよりずっと以前に洋子自身が兄の塚本能交に頼んで強力な弁護士を入れて岡本先生の排除や私の資産の収奪方法を画策していた事実を充分に認識しているのにかかわらず、全くの虚偽の主張を捏造して他人を陥れることを企むのですから、何とも悪辣で卑劣な行為と言わざるを得ません。何よりも、まぬけです!
「[暴露本]を出す代わりに何も請求しない」という嘘
洋子はK弁護士から聞いた話として、「林氏は[暴露本を出す代わりに何も請求しない]と言ったのだから暴露本を出した以上、何も請求してはならない」という主張をしていますが、この意味は大変に難解です。推測するに、私が「事実を公表する代わりに総額10億円にあまる私の資産を全てプレゼントする」という、何とも一方的に洋子だけに都合の良い約束を交わしたという話を捏造しているようです。
残念ながら、そもそも、K弁護士が言ったことを否定していますし、世界の隅から隅まで探しても、そのような陳腐な約束や契約を交わした事実の欠片も見当たらないので、これもまた、証人も証拠も無い洋子の独り言に過ぎない大嘘です。
「暴露本を出すと脅された」という嘘
初期の洋子の文書である「離婚にあたっての要望事項」に書かれた「株は返す」という洋子に取って都合の悪い記述を消すために、私に暴露本を出すと「脅されて書かされた」という嘘を言い出しました。
裁判では、この洋子の虚偽の主張が認められて、この「離婚にあたっての要望事項」は無かったことにされてしまいましたが、しかし、世界の隅から隅まで探しても、そのような「脅す」ような事実の欠片も見当たらないので、これもまた、証人も証拠も無い洋子の独り言に過ぎない大嘘です。
この二つの「暴露本」に関する嘘に共通する問題は、その内容が事実でありプライバシーの侵害や名誉棄損に抵触しない限り、私には憲法によって表現の自由が保障されていますから、問題は、書かれていることが事実か事実でないかに集約されます。事実であれば、本を出すも出さないも私の自由であり、それと私の資産の提供を交換条件にする契約そのものが成立要件を満たしません。
また、事実を報じられることを「脅される」という牽強付会な言いがかりには理解が及はない上に、洋子は「林氏は、話を全く自分なりのストーリーに変えて思い込むというか書く癖があったから、そういう風に書かれてバラまかれるのが怖かった」と主張していますが、という事は、これから嘘を書かれることを予測して恐れていると言う話であり、殺意を抱いただけでは殺人罪は成立しませんから、はなはだしい言いがかりに過ぎません。
他人に聞かれて恥ずかしい行いをしている人には暴露本かも知れませんが、良きことをしている人にとっては賛美の書となるだけの話であり、洋子も、自分が正義に基づいて行っている事なら世間に知られても痛くもかゆくもないでしょうから、私が事実を公知することを、それほど恐れる事こそが不自然です。堂々と生きましょう。
「いろいろと手助けをしてあげた」の嘘
まあ、当時は親戚だったのですから、恩を着せ合うよりも、お互いに協力し合うのが真っ当な気がしますし、いずれにしろ、助けるとか助けられるというよりも、単なるビジネスの話です。私が、DOME COMPOSITES THAILAND(DCT)の設立のために工場を探していた時に、かねてより塚本家を通じて知り合っていた、タイ・ワコールを運営する地元の有力者の所有する工業団地に該当するような賃貸物件が無いかを問合せていました。
つまり、工場を貸すことを生業にしている人に工場を借りる話を持ちかけていた訳ですが、それが、どうすれば「助力を受け」「協力し」「感謝されてしかるべき」ような恩着せがましい話になるのでしょうか?
その上、DCTも東レに売却することになったのですが、東レは、そのタイの有力者の敷地内に大工場を建設したので、そのタイの有力者は、これから先、長きに亘って地代が入り電力が売れるのですから、私は、どう考えても、その有力者には感謝されていると思っていたのに、「いろいろと手助けをしてあげたのだから感謝されても根拠なき請求をされる筋合いは無い」と言われるのですから、ホント、「名声と社会的信用」のある人たちとの付き合いは難しいものです。
これも、だから亭主の資産を奪っても良いと言う話には成りませんから、印象操作を目的とした誹謗中傷に過ぎません。
童夢株の不当な評価
洋子は、株を「もらった」と主張している訳ですが、それにしても、株だけに限っても3億円+童夢株25%をもらうのは尋常な出来事ではありませんし贈与税も払っていませんから、ここでも辻褄合わせの嘘を言い出します。
曰く、「2005年、童夢株1株500円で譲り受けているところ、これが童夢の客観的な株式価値であった」「2005年当時において1株5万円で譲り受けているところ、これがDCM株式の客観的な株式価値であった」等と主張して、当時としては、たいして価値のあるものを譲り受けた訳ではないと言い出しましたが、ちょっと待ってください。この金額は設立当初の株の発行価格そのものであり、創立27年(株を洋子に名義変更した2005年当時)の童夢の株や、歴史は浅くても大躍進中のDCMの株価が設立当時より一銭も上がっていないと主張している訳です。
非上場会社の株価を算出する方法は何種類かあります。最も単純な方法として、童夢の2005年の「決算報告書」の数字から「純資産価額方式」で計算してみましょう。「総資産」-「総負債」=「純資産」 「純資産」÷「総株式数」=評価額/一株となりますが、これによると、1978年の創立時に500円/株でスタートした童夢が2005年には7730円/株に価値を高めていることが解かりますし、この決算書の数字も節税のために岡本先生が思いっきり圧縮した結果ですから、実質的な株の価値は遥かに高かったでしょう。
もし洋子が童夢の決算書を見て、この主張をしているのなら作為的な虚偽ですし、知らないで言っているのなら出まかせに過ぎませんから、どちらにしても、悪質な虚偽による言い掛かりであることは明白です。
「K弁護士が言った」という嘘
今でも私は、この不思議な現象の理由が解っていませんが、洋子は裁判における答弁書で「K弁護士は、童夢の会社の方と共に、晩節を汚すなとまで言って説得をしたようですが、林氏が無理ばかり言っているとのこと」とか「K弁護士によれば、塚本家から金をかすめ盗っとた言われるのも腹立たしいから、洋子氏への請求は一切しないかわりに暴露本をだすといった」等と主張したり、極めつけは、洋子からの和解案の中に「K弁護士から[林氏は宝ヶ池の不動産は要らないと言っている]と聞いたので、第三者に売却した」という、とんでもない記述がありました。
私が何を言っているのかご理解いただいていますでしょうか? 私も、あまりに浮世離れした不可解すぎる現象に戸惑うばかりで、この超常現象の異常さを、どのように表現してお伝えしたら解っていただけるのか適当な言葉も浮かんでこないほど訳の解らない出来事でした。
対立相手が、私と共に戦っているはずの私の弁護士が言ったということを根拠にして核心に触れるような処理を実行してしまうのですから、この可笑しさ不可思議さは、どうにも理解のしようが有りません。キツネにつままれたような気分です。
洋子と離婚した原因はいろいろありますが、その一つとなっているのが、長年に亘って問いかけ続けても改善されなかった私への反抗的で横柄な態度にありますし、長年の付き合いの洋子の兄の塚本能交とも彼が社長に就任した辺りからフランクには付き合えないぎくしゃく感が付きまとっていましたが、不覚にも私は気が付かなかったものの、今更ながら、通底する原因は「身分の差」ではなかったのかと思うようになっています。
洋子は裁判において「塚本家の一部上場企業の名前があることによって取引先から信頼を得られるメリットがある」「林氏が洋子氏の社会的信用を利用するために取締役とした」「洋子氏が、株式会社ワコールの創業者の娘であったことから、林氏は、童夢の事業においてその名声と社会的信用を利用すべく、取締役として選任している」
「林氏は、洋子氏の名声と社会的信用を十分に利用していました」等の主張を繰り返し述べていますが、誰もこの記述を止めなかったんでしょうか? 私には、これを自らの答弁書で語る精神構造が理解できません。
ちなみに、洋子は私に無断で私を洋子の会社の取締役に登録していますし、ネットで「塚本洋子」を検索しても私か童夢関連しか出てきませんから、私も利用されていたのでしょうか? どうでもよいことですが。
その他にも「洋子氏は、多少のお金で済むことなら早く関係を断ちたいと言われました」「またまた訳の解らぬ請求をされ、一体、何を考えているのか人間性すら疑わざるを得ません」「社会の道理もわきまえず」「林氏に渡した金員については、林氏から返還を受けていません」「林氏は、結婚後、生活費を一切負担しませんでした」「一般常識からかけ離れた信念」「外ではいい顔をしてもお金にはシビアな方でした」「林氏は洋子氏から何としてもお金をもらいたいもののようです」「怒りを通り越しほとほとあきれ返っております」等、謂れも無い誹謗中傷が並べ立てられていますが、書いているだけでムカついてくるのでこのくらいにしておきます。
最早、私にとって裁判とは、社会経験も常識も無い六法全書だけが頭に詰まった人として未熟な裁判官が、虚仮おどしのコスプレを着せてもらって、高い壇上から人々を見下ろし、廓言葉のような符丁で権威付けしてもらって、自由心象主義とか弁論の全趣旨とかで好き勝手な判断を捏造することを許され、その判断が間違っていてもお咎めなしというお花畑のような環境における「おままごと」に等しく、そこから出てくる判決など、最早、神社のおみくじほどの意味も無いと思っています。
数年前に、私が日本の司法を信じて、正義と真実を求めて訴訟提起に至った事こそが全ての間違いの元となりましたが、裁判所だけではなく、助けを求めて会った20人以上の弁護士の全てがテクニック論に終始し、誰一人とし正義と真実の追求について言及した人は居ませんでしたから、今更ながら、法曹界が、ここまで機能不全に陥っているとは夢にも思わなかった私の世間知らずが悔やまれます。
判決については長くなるので割愛しますが、その判決文の中では「公的機関に提出する文書に真実と異なる記載をするとは考え難い」という理由で名義株を否定しています。しかし、ここを否定してしまったら名義株そのものが存在しなくなりパラドックスになってしまいますし、公文書偽造や虚実記載などの犯罪の全てを否定することになります。また「税理士が相続税を免れることを指導するとは考え難い」との理由で岡本先生の指導で洋子が相続対策を行っていたことを否定していますが、「相続税を免れることを指導」できない税理士に顧問を頼む資産家も経営者もいないでしょう。それなら「弥生会計」で充分です。また「当時50代であった原告が、自己の死後の相続税について対策を進める必要性を感じ実行していたかは疑問がある」として相続対策を否定していますが、60代から始められる相続対策は限定的ですから、しょせん、サラリーマンの発想に過ぎません。これらの、まるで、頭をかち割られた死体を前に「人が人を殺すことは考え難いから殺人ではない」と言っている刑事や「憲法9条があるから外国は攻めてこない」と言っているお花畑平和主義者のような戯言は、性善説というのか非常識というのでしょうか? お笑いの判決文は「ブラジャーVSレーシングカー」にてお楽しみください。
人生最後の大博打であった「童夢と林の最後の夢」も崩壊してしまった後は、慣れぬ法律文書を紐解いたり裁判書類を分析したり、洋子との戦いに忙殺されていましたし「ブラジャーVSレーシングカー」などの執筆に追われる空しいだけの日々が続いていましたが、困ったことに、塚本とは半世紀に及ぶ付き合いだったので、友達だけでなく、ほとんどの馴染みの飲食店もかぶっていました。ところが紛争が表面化してからは、私が行くと塚本一族が来なくなるという状況になっていましたから、多勢に無勢、露骨に迷惑な顔をされるケースもありましたし、または、その店の売り上げを考えると気を遣って顔を出せなくなり、今は、塚本一族が来なくても良いから来てほしいという奇特な店だけが私のテリトリーなので、夜の街も肩身が狭くなっています。
気にしすぎでは?と思われるかも知れませんが、紛争勃発後、親しい友人からも連絡が途絶えていた頃、双方と仲の良かった友達たちと出くわした時に、「ごめんね、塚本さんから連絡するなと言われているから」と言われましたし、友人の建築士と新居の建築の相談をしている写真をSNSにアップしたら、その建築士は、当時、請け負っていた洋子のマンション建設の仕事を切られてしまいましたし、また、我家の新築パーティの写真をSNSにアップしたら、そこに写っていた共通の友達が洋子から絶交を告げられましたし、長年の付き合いのワコールのメインバンクからは露骨な嫌がらせを受けて切られましたから、ことほど左様に、気にしすぎどころか人生や生活に大きな影響が生じるくらいの村八分状態に陥っています。
構図としては「童夢と林の最後の夢」の実現に必要な資金を調達するために、会社などの私の資産のすべてを売却した売却益の内、相続対策の為に洋子の名義を借りていた分を収奪されたために計画が破綻したのですから、まだ洋子の名義に変えていなかった資産が残ったので何とか暮らしては行けますが、ちょっと想像してください。
私は、東レやトヨタなどが会社や実験設備の譲渡を申し出ていたくらい価値のある企業のオーナーでしたから、「童夢と林の最後の夢」を言い出さずに普通の老後を選んで会社を維持していたとしたら、このまま、何の疑問も持たずに相続対策が進んでしまっていたと思われますが、そうだとしたら、どうなっていたでしょう? この先、どんどんと私の資産が洋子の名義になっていたはずですが、もし、その時に、今回と同様に家を追い出され、今回と同様に「もらった物であり全て私の物」と言い出し、今回と同様に裁判で負けたとしたら、私はほとんどの資産を収奪されて、家も建てられなかったでしょうし、生活費にも事欠いていたでしょうし、年金を当てにしながらの悲惨な老後を余儀なくされていたでしょう。
決して妄想でも大袈裟でも無く、現実、洋子に預けてあった10億円にあまる資産を全て盗られて一銭も返っていないのですから、これ以上の資産の移転が続いたとしても、もっと悪辣な手段を使ってでも取り残しが無いように奪っていった事でしょう。
「でも、その前に離婚していたでしょ?」という疑問はもっともですが、この事件の全体の流れを思い起こしてください。今の私は、離婚に至った経緯からもタイミングからも、私が「童夢と林の最後の夢」を言い出した事が原因で追い出されたと確信しています。私が資産を売却すると宣言したという事は、すなわち、私が預けていた洋子名義の資産を返さなくてはならなくなりますが、さすがに結婚したままで「私の物」とは言えませんから、洋子が返却を阻止できる唯一の方法は、離婚して名義を楯に収奪するしかありませんでした。闇がどこまで深いのか想像もつきませんが、そうして思い返すに、それまでの夫婦間のいろいろな記憶も全く異なった色合いに染まってしまいます。
あの、長らくに亘る思いっきり陰鬱な夫婦関係が単なる夫婦間の愛憎とか軋轢とかでは無く、洋子にとっては、資産の移転を待つ間の我慢の時だったとしたら、訳の解らない理不尽な時間を耐え忍んできた私はあまりにも浮かばれませんが、今になって当時を振り返るに疑念は確信に変わるばかりです。養殖の鮪か北京ダックだったのでしょうか?
それでも、まだ「洋子ちゃんに限って」と私の言うことを疑っている方が多いと思いますし、多少の疑念を抱いたとしても、これからの付き合いを考えると見なかったことにしてしまう方も多いと思いますが、それにしても、ちょっと旦那の財布から金をくすねたとか拾った金を届けなかったとかの話ではなく、嘘八百の上、かなり用意周到で計画的な収奪ですから、普通なら何事も無かったように過ぎていくレベルの出来事ではないと思います。しかし、塚本一族は何のそしりを受ける事もなく普通に過ごしていますし、私と言えば、最初に述べたように孤立無援の戦いを強いられていますから、時々、私の方が理不尽な要求をしているような錯覚を覚えますし、世間でも、私の方が洋子の資産を取りに行っていると思っている人が多い現実は、一体、どのようなメカニズムなのかマジックなのか知りませんが、これを浮世と言うのでしょうか? この頃は、人と人との距離が遠く感じるようになっています。
洋子の主張に一切の証人も証拠も無いことは裁判における答弁書を調べれば解りますし、これほど通信の発達した現在において、人と会ったとか協議したとか大切な決め事をしたとかの全ての主張に一切の痕跡も証拠も残っていないこと自体が有り得ませんし、全てが嘘ですから公判文書の中は「認識した」「思った」「考えた」「言っていた」「認められる」「同視した」などという一方的な願望だけが溢れていますし、たくさんの証明できる嘘の羅列からは嘘つきである事は実証されていますし、その主張は二転三転して一貫性がありませんし、山ほどの裁判と関係のない悪口雑言は尋常ではないのに、自らの事を「名声と社会的信用がある」と宣うような人の言う事だからでしょうか? そんな安直な作り話でも裁判所では通用してしまいますし、世間にも洋子を信じる人が多い現実は、正直、狂っているとしか思えません。
一方の私は、真実と正義を求めて司法に判断を求めているのだから「真実を追求する裁判において事実と証明の出来ない主張はすべきではない。例え事実であっても証明の出来ない主張はしてはならない」と弁護士に縛りをかけていたくらい頑なに真実に拘って戦ってきましたが、しかし、現実の裁判では嘘しか通用しないのですから、それはつまり、真実は通用しないという事と同義であり、陳腐なだけの勘違いでした。
それ以前に、自分が足を滑らせて落ちたところが、肥溜かプールかくらいは理解しておくべきでした。プールならカッコ良い泳ぎ方にも意味がありますが肥溜なら形振りかまわずに脱出する事が先決ですから、肥溜でカッコ付けていた私は、ただただ滑稽な道化師のようなものでした。
ずいぶんと卑下した言い方が続きますが、正直、初期の段階で洋子を必要以上に信用していなければ、もう少し日本の司法の実態を把握していれば、世間の巨悪を許す寛大さに気が付いていれば、絶対に、こんな悲惨な結果にはならなかったと思いますから、そんな油断を利用しての戦略的な収奪行為は、騙されたとか利用されたとか弄ばれたとかいうような悔しさが付きまとい、自業自得とはいえ、今となっては後悔しか無く、どうしても自らの甘さを責めざるを得ないのです。
泣き言はさて置き、しかし、ものは考えようと言います。私が「童夢と林の最後の夢」を言い出した時は、まだ相続対策の道半ばだったおかげで、残った資産で私はホームレスからは救われましたから、私の最後の夢は叩き潰されたものの、その私の最後の夢が、何とか老後を過ごせるように置き土産を置いていってくれたのかもしれません。
こう言うと、達観したように思われるかも知れませんが、確かに、余力も有りませんし残された時間も多くは無いものの、だからと言って、私が洋子の「金を借りて返していない」とか、「生活費を一切負担していなかった」等の大嘘によって貶められた私の名誉を回復しないまま口を閉ざすなんて事は絶対に有り得ませんし、法が許しても私は許しませんから、洋子が嘘を認めるまで、これからも私なりの方法で戦い抜く所存です。
こんな面白くも楽しくも無い話に、ここまでお付き合いいただき、まことにありがとうございました。どの程度、信じていただけたか気になりますが、洋子の嘘は、まだまだ山ほどありますし、読めば読むほどに真実が鮮明に見えてくると思いますので、興味のある方は、是非、下記の他の参考文献にも目を通していただきたいと思います。
また、ここで書いた内容については全て説明も証明も出来ますので、もし、疑問な点があれば、「MAIL BOX」から問合せください。感想もお待ちしています。
コラム(本コラム)/小冊子 「ブラジャーVS レーシングカー digest 版」
第三書館版「ブラジャーVS レーシングカー」が長文すぎて不評なので、約 1/10 に圧縮した digest 版です。
コラム 「ブラジャーVS レーシングカー副読本[童夢と林の最後の夢]」
元嫁との紛争の元の元の原因となり、また、その紛争により瓦解してしまった、私が人生の幕引きに向 けて計画していた稀有壮大な夢物語を説明しています。
書籍(林みのる著 第三書館より出版) 「ブラジャーVSレーシングカー」
世間では、私の方が元嫁の資産を取りに行っているがごときの噂が広がっていますので、それを払しょ くするために私自身が執筆して上梓した本です。最も詳しく説明しています。
書籍(丸山昇著 第三書館より出版) 「クラッシュ」「クラッシュII」
早い時期に、この事件に興味を持ったフリーライターの丸山昇氏と第三書館がルポルタージュとして出版した本です。
COLUMN / ESSAY / LETTER
Nov.05 2019 ブラジャーVSレーシングカー副読本[童夢と林の最後の夢]
元嫁との泥沼の紛争についての拙著「ブラジャーVSレーシングカー」を上梓していますが、私の文章の最大の欠点は長い事です。一切の反論を封じ込めておこうと思うあまりに多角的な説明を試みますから、ついつい長くなってしまいます。結果、読んでもらえなくて反論もくそも無くなるので逆効果なのは重々に承知しているのですが、性格なのでしょう直りません。
そこで、1/10くらいに簡略化した「ブラジャーVSレーシングカー digest版」という小冊子を作るとともに、私のホームページ「林みのるの穿った見方」のコラムにアップしましたが、思い切ってバッサリと削ってしまったので、そもそもの事件の発端となっている「童夢と林の最後の夢」の内容についても簡略化されており、全財産を処分してまで、一体、何をやりたかったんだ?と聞かれることが多くなりました。
そこで、本編では、私の人生の最後を大輪の花で飾るはずだった稀有壮大な計画である「童夢と林の最後の夢」が何だったのかというところに焦点を当てて話をさせていただきたいと思っています。
逆に、これを始めて読まれた方は、是非、その「童夢と林の最後の夢」を叩き潰した原因が何であるかを説明している「ブラジャーVSレーシングカー(林みのる著 第三書館出版)」または、コラムに掲載している「ブラジャーVSレーシングカー digest版」を読んでください。これはこれで猟奇ホラーとしても充実した内容となっています。実話ですが。
「全体像」
本文を始めてお読みになる方には訳が解らないでしょうから、概略だけをお話ししておきますと、かねてより、「70になって仕事はしない」と言いふらしていた私は、66歳になって引退が現実味を帯びてきた2011年頃、何を考えていたかと言うと、痺れるような人生最後の大博打に心を奪われていました。
その頃、幸いにも私の会社である㈱童夢や関連企業の業績は好調でしたし、無借金経営を実現していましたし、大手企業が会社や施設の譲渡を求めていたような状況下、私には、全てを売却して悠々たる老後を満喫するか、誰かに経営を任せて利益を享受するかの選択肢がありましたが、何しろ、14歳でバイクにのめり込んで以来、親からこずかいももらえず、ゼロスタートで童夢を立ち上げてきた私としては(親の名誉のために言えば、その後、なにがしかの資産は相続していますが)、それが有意義な浪費であればゼロに帰する事は恐れていませんでしたし、大博打ですから成功すれば糊口をしのぐくらいは期待できますから、ハナから悠々自適の選択肢はありませんでした。
この、社内通称では「遺作プロジェクト」と呼ばれていた「童夢と林の最後の夢」の実現には、かなりの予算が必要でしたから、童夢を含む当時の私の資産の全てを売却して挑もうと準備を進めていたところ、何故か同じタイミングで離婚話が浮上していた元嫁が、相続対策の為に元嫁の名義を借りていた私の資産を「私の名義だから私の物」と言い出し、結局、裁判までもつれ込んだものの取られてしまい、資金不足から「童夢と林の最後の夢」は頓挫してしまったという、ちょっと信じられない展開となりました。
つまり、盛業中のイケイケの会社を売却した上で多くの資産を取られて目的を果たせなくなり、残った資産で細々と暮らすと言う極めてあほらしい結果となりましたが、その恐るべき顛末については、是非、「ブラジャーVSレーシングカー(林みのる著 第三書館出版)」をご笑覧ください。
「日本の自動車レース事情」
さて、「童夢と林の最後の夢」の意味をご理解いただくには、まず、日本の自動車レースに関する根本的な問題点からお話しなくてはなりません。
技術立国と言われ続けてきた日本ですが、現状、その実態は限りなく脆弱です。過去の栄光にしがみ付いている人達には、既に中国にも追い越されている現実も見えないし見たくもないのでしょうが、これだけ技術力の育成を蔑ろにしてきたら当然の結末です。それは自動車レースの世界でも変わりは無く、ほとんどのレーシングカーを輸入に頼り、HONDAやTOYOTAですらF1やルマンなどのビッグレースに参戦する時は外国の企業に丸投げすることが当たり前になっていますから、これでは、自国のレース産業や技術を育成するどころか、国内のレース予算を海外に流出させ、その資金で海外のレース産業はますます発展し技術力も向上する一方、国内のレース産業を、ますます疲弊させていくだけの売国的で愚かな行為です。
ほとんどの方は日本の自動車メーカーの技術力を高く評価されているでしょうから、この私の説明も素直に耳に入らないかも知れませんが、童夢は日本の自動車メーカーのワークス・レーシングカーの開発を受託してきましたし、自動車メーカーは現在も主要なレーシングカーの開発を海外に丸投げしている実態からも解るように、つまり、日本の自動車メーカーは優等生を量産する技術には長けているものの、レーシングカーやスポーツカーなどの特殊な車両の開発能力は脆弱です。
私は、ここ20年くらいに亘り、「日本の自動車レースの発展には日本の技術力を成長させて海外への資金の流出を抑制する事が重要だ」と説いてきましたが力及ばず、未だに、日本の自動車レース界も日本の自動車レースを主導する自動車メーカーも、まるでブランド狂いのセレブマダムのような外国崇拝が続いていますから、さすがに私も言い飽きたというか根負けしたというか、それも私の引退を後押ししていた理由の一つとなっていました。
「最後にカッコつける」
童夢は、2006年に米原の新社屋を建設したときに借り入れた10億円を数年間で完済して無借金経営を達成していたほど業績は好調でしたから、2009年にはJAF-F4用のカーボン・モノコックを開発して供給を開始したり、スーパーFJを開発して生産/販売権を業界に提供したり、2002年には「童夢 S102.5」でルマンに参戦したり、2014年にはGT300用マザー・シャシーを開発してレース界に供給したり、2015年にはFIA-F4を開発して販売を開始したり、「STRAKKA 童夢 S103」を開発するなど、自己資金を投入してのレーシングカー開発やレース界の振興に寄与するような様々な施策を打ち出していましたが、この業界を知る人ならご理解いただけると思いますが、どれ一つとして還元を期待出来るようなプロジェクトはありませんでしたから、ただただ浪費していただけあり、我田引水的に言わせていただければ、幕引きの近づきつつある私がレース界に何を残していけるかを手探りしていた頃でした。
しかし、前述したような、日本のレース界を発展振興させるための提言も、様々な奉仕的な活動も、相変わらず「童夢だけが儲けようとしている」と反発されるだけの徒労に終わっていましたから、このような料簡の狭いレース界の人達が相手では、並大抵の仕掛けでは潰されてしまうのがオチだという事が解っただけでした。
一時期は、何をしても、とやかく言われるだけのレース界に見切りを付けて、ハワイの豪邸で余生を過ごすという選択肢も頭をよぎりましたが、何をトチ狂ったのでしょうか、私は逆に、あの木を見て森を見ないレース界の人達でさえも認めざるを得ない稀有壮大な大仕掛けを置き土産に引退してやろうという、とても危険な方向に走り出していました。
究極の夢とか華麗なる幕引きとか最後の檜舞台などの奇麗なお題目は付けられますが、正直言って、最後は力業でレース界の連中をギャフンと言わせてやろうと言う魂胆もありましたし、人生の最後に大輪の花を咲かせてから潔く身を引くという自分なりの美学に酔いしれてもいました。
「スポーツカーの開発システム」
話は少し遡りますが、童夢は最初の「童夢-零」以来、何回も、公道を走るスポーツカーの実現に挑戦してきましたが未だに実現できていません。それは、法の網目をかい潜って何とかするというレベルの話では無く、個人が自動車を製造販売することが法律で禁じられている訳では無いのだから、しかるべき方法と基準で審査しろと言い続けてきたからですが、結局、まともに取り合われる事も無く実現には至っていません。
まあ、童夢にとっては喉に刺さったままの魚の骨のような状態でしたが、近年、世界的に少量生産車のナンバー取得が困難になってきており、童夢には、イタリアのカロッツエリアから、最近は法規制が厳しくなり少量生産車のナンバー取得が難しくなって事業に影響が出始めているので日本で何とかならないか?という相談が来たり、アメリカや台湾や中国や国内からは、うわさに聞く日本の「組立車」によるナンバー取得に興味を持ち、日本での開発/生産を打診してくる事も多くなっていました。
もう15年くらい昔になりますが、マレーシアでTVRのスポーツカーを生産/販売していた会社から、TVRのライセンスが切れて売ることが出来なくなるので次期車の開発をお願いしたいという依頼が来ました。知人の紹介だったのでマレーシアまで行って真摯に対応していたのですが、その会社は、マレーシア政府が産業振興のために少量生産車の製造販売を許可している少量生産車メーカーだったので、私は途中から、童夢が開発したスポーツカーをこの会社に製造販売させるというJVを考えるようになり、夢が膨らみつつある時に、突然、この会社は倒産して消滅してしまいました。
それからしばらくはマレーシアともご無沙汰だったのですが、2010年頃からレース関係の用事で頻繁にマレーシアを訪れる機会があり、もう少し規模の大きい少量生産車の製造販売をしている会社の社長と知り合いましたが、何回か会う内に経営不振だから会社を売りたがっている事を知りました。
私もうかつなことは言えませんから、その社長には何も言わないまま、マレーシアの弁護士を雇っていろいろ調べ始めましたが、少量生産車の製造販売の許可は既得権益のようなものであり、新たな企業への許可は期待できない、つまり希少価値であることが解りました。デューディリまで至っていないので財務内容は解らないもの、かなり借金がありそうでしたから、それが問題でした。
マレーシアではエンジンは輸入できるもののシャシーは産業保護のために輸入を禁止されていますが、しかし、貿易協定によりタイからは輸入できるので、カーボン・モノコックはタイの「DOME COMPOSITE THAILAND」から供給できますし、図面さえあれば、かなり高度な工業製品が安く作れる環境である事なども解ってきました。
いろいろ調査が進むうち、それやこれやの全てをミキサーに放り込んでジュースにするように、いつしか、私の頭の中で一つのイメージが膨らみはじめ、次第に具体的な形になっていきました。
それは、設計開発を(その頃は新生童夢となっているはずの)童夢が担当し、これからのレーシングカー/スポーツカーに欠かせない高品質なカーボン製の車体はタイの童夢COMPOSITE THAILAND (当時)から供給し、買収したその少量生産メーカーに新型車の型式認定の取得と生産/販売を担当させるという、東南アジアをネットワークした気宇壮大な構想でした。
もし、このシステムが実現すれば、オーダーメード・システムとして、これほど高度な開発技術力と高品質なカーボン車体製造技術とナンバー取得が可能な生産工場の合体は世界に例を見ませんから、例えば、ZAGATO(イタリアの名門カロッツェリア)が100台のスポーツカーを市販したいと思っても、現状では莫大な認定取得費用が必要となり、ほぼ不可能ですが、童夢が受託することにより実現が可能となりますし、自動車メーカーがフラッグ・シップとして100台だけスーパーカーを市販したいという要望にも応えられますし、好みの車を作って販売したい小規模な自動車メーカーを目指す人の夢も実現できますし、アメリカのお金持ちのワンオフのカスタム・ロードカーを作りたいという希望にも応えられますし、EVの販売を考えている自動車メーカー以外の企業も興味を示すでしょうから、マーケットは地球規模に広がったでしょう。大風呂敷を拡げるならば、ひょっとしたら世界のスポーツカー事情を塗り替えることになるかもしれない稀有壮大な計画でした。
そうして童夢が担う設計業務が忙しくなれば、必然的に人も増え技術レベルも向上し経験も積んでレーシングカーの開発能力も育ち、10年後には、日本製レーシングカーが世界のサーキットを埋め尽くしている可能性も夢ではありませんでした。
「遺作プロジェクト」
目標さえ定まれば暴走はお手の物でしたから、急激に、絵に描いた大きな餅がこんがりと焼きあがっていって、私いわくの「童夢と林の最後の夢」、社内通称「遺作プロジェクト」は走り出しました。
さすがに暴走ですから計画は杜撰です。まず、このプロジェクトのシンボルとなるスーパー・スポーツカーの開発を開始しますが、子会社の「童夢カーボン・マジック」の東レへの譲渡と、風洞実験設備「風流舎」のトヨタへの売却(別の事情と計画がありました)を確定させてから物件の引き渡しまでの期間に、それらの設備を使ってスーパー・スポーツカーを開発してしまおうと言う綱渡りのような計画でしたからタイミングが重要でした。また、マレーシァの少量生産車のメーカーも青息吐息の感じでしたから、あまりに話が長引くと消えてしまう心配もありました。
「ウルトラCの資金調達法」
どんな計画も同じですが、妄想はとどまるところを知らずに広がっていきますから、どんどんと予算規模も拡大してきて、最終的には、オリジナル・マシンを開発してルマンに参戦するのに比べて10倍くらいは必要となりそうでした。
もちろん私も、何の目途もなく妄想を膨らませていた訳ではなく、当初は、稼いでくれていた「童夢カーボン・マジック」の利益で賄うことも考えましたし、銀行も喜んで貸してくれたでしょうが、もとより、数年後の私の引退を前提とした話ですから、ここで借金を残すわけにはいきません。
幸いな事に、当時、複数の大企業から「童夢」や「童夢カーボン・マジック」や「風流舎」を譲渡してほしいという依頼が来ていましたので、いろいろ葛藤はあったものの、すっぱりと全てを売却して、その売却益をつぎ込むのが最も私の最後の打ち上げ花火にはふさわしいと思うようになっていました。
思えば、ずいぶんと乱暴なエンディングに向かって突っ走っていましたが、しかし、その、家財道具を売り払ってラスベガスに勝負に行くような「やたけた(大阪弁)」な戦略も、私の最後を飾るにふさわしい大博打だと思っていたくらい、この頃は、根拠のない自信に溢れていたものです。
東レへの「童夢カーボン・マジック」の譲渡は順調に進み2013年3月18日には童夢と東レからのプレスリリースにより正式に発表されましたが、その時の童夢のプレスリリースはネットで話題になっていました。
-中略-
今までの資金源であった童夢カーボン・マジックを売却し、その売却益を投入して私の最後のお遊びに使い果たそうと考えた訳です。
-中略-
私はこの3年間に思いっきり自由な車造りを楽しんで、「あー、楽しい人生だった」と満たされた気持ちでリタイアする予定ですのであしからず。
「とわ」
これは極めて個人的な思い入れではありますが、スポーツカーを市販すると公言してスタートした童夢は最初の「童夢-零」も「童夢 P-2」も「CASPITA」も市販には至っていません。何とか、このあたりのけじめを付けておきたかったのと、レーシングカーを1台作るのとロードカーを1台作るのとでは圧倒的にパブリシティ量が異なることは何回も経験済みですから、この「童夢と林の最後の夢」の旗揚げに際しての世間へのアピールを考えるに、どうしてもシンボルとしてのスポーツカーの開発がマストでしたし、私としても、遺作としてロードカーを残す事に拘っていましたから、いち早く、開発をスタートさせていました。

「組立車について」
ここで、よく聞かれる質問にお答えしておきたいと思います。それは、何もマレーシァの会社を買わなくても国内で「組立車」としてナンバーを取得すれば良いじゃないかという疑問ですが、あるカスタムボディ屋さんが、自社の改造車のナンバー取得の道を探るプロセスにおいて「組立車」というカテゴリーに目を付けて、地方の陸運事務所にお百度参りした結果、根負けした陸運事務所から99台なら生産しても良いというお墨付きを取ることに成功しました。その後、徐々に99台の「組立車」は既成事実化していき、現在は、国交省でも、車を作りたいという人には「組立車」を案内するくらいになっています。
一見、快挙に見えるものの、土台、発想の原点がボディの改造車ですから99台でも成立しますが、普通、「自動車を作る」と言えばシャシーも含まれる場合がほとんどですし、プレスフレームにしろカーボン・モノコックにしろ、少量生産車と言えども、かなりの開発費や型/治具等の費用が発生しますから、そうなると、99台では成立しません。つまり、既存の車の外装だけを変えたカスタムカー用の抜け道にしか過ぎず、却って正規の型式認定への道の障害となっている訳です。
何よりも、もともと「組立車」は法律で「販売の用に供してはならない」と定められていましたから本来は無理筋な話のはずですが、立法機関を無視してのお墨付きは法治国家にはなじみません。
しかし、現実には、事実として日本での型式認定取得の道は閉ざされていますから、40年前の「童夢-零」の時と何も変わらないまま、これとて抜け道にしか過ぎませんが、マレーシァに向かわざるを得なかった訳です。
「童夢と林の最後の夢」の崩壊
時系列的に言えば、私が2011年頃に「童夢と林の最後の夢」を実現するために会社等を売却すると言い出して、徐々にプロジェクトが動き始めた2012年になって、状況的には元嫁に追い出されるような形で別居となり、その後、元嫁が弁護士を入れて私の資産の収奪を仕掛けてきます。
2013年に子会社の東レへの譲渡がクロージングする頃に離婚に至りますが、元嫁が、その売却益を奪ってしまったので紛争が激化し、そうこうして揉めているうちに「童夢と林の最後の夢」を実現できるタイムリミットを迎えて2014年の3月に計画は頓挫してしまいました。
まだ何も解決していなかったので、それから裁判にもつれ込み、延々と慣れない法律関係の書類の山を前にした奮闘が続いていきます。
「マザー・シャシー」
前述したように、日本のレース界の木を見て森を見ない人たちには全く理解されていませんが、実は私、日本の自動車レース産業を発展振興させることを目的に、自腹を割いて様々な取り組みをしてきました。
「マザー・シャシー」も一例ですが、当時、スーパーGTのGT300クラスがFIA-GT3に浸食されて日本製のレーシングカーが駆逐されそうになっていましたから、防御策として、日本のチームが独自のGT300マシンを製作するためのベースとなる「マザー・シャシー」構想をGTAの坂東に提案し、協力して実現を目指そうと計画していました。しかし、サスペンション付きのローリング・シャシーとなると開発費もかさみますが、そんな費用を負担してくれる奇特な人は誰も居ませんから、たまたま開発を進めようとしていた「童夢-とわ」のモノコックをベースにGT300用のローリング・シャシーを開発して、開発費の要らない形でGTAに供給する事を決めました。
ところが、開発途中の2014年に、元嫁との紛争で「童夢と林の最後の夢」が頓挫してしまう事になり、GTAとの約束は果たせなくなったのですが、坂東との約束もありますから、結局、最初からGT専用として新たに開発をやり直して「マザー・シャシー」が誕生することになりました。だから、「マザー・シャシー」は唯一の「童夢と林の最後の夢」の置き土産になったという訳です。
「童夢の終わりと始まり」
こうして、会社などを売却したのに「童夢と林の最後の夢」も崩壊してしまい、全く予定とは異なる状況で引退の時期も迫り、2015年の7月に京都の東急ホテルで引退パーティ「童夢の終わりと始まり」を開催して、同時に「童夢」の友人への譲渡も発表しました。
気が付けば私は何もかもを失い、なんか、突然に乾いてひび割れた大地の真ん中にポツンと立っているような状況となっていましたが、そんな空疎な虚脱感を味わっている暇もないほどに裁判では劣勢が続いており、私は、相も変わらず裁判書類との睨めっこの日々に追われていました。
それでも、友人に譲渡した童夢の顧問を引き受けていましたので、これからの童夢の発展に寄与するべく、いろいろと手助けをする立場にありましたから、新生童夢の立ち上げにも深く関与していました。
当初から私はレーシングカーを作り続ける事を譲渡の条件にしていたのに、友人の新オーナーも新社長も積極的ではなく、「経営が安定するまでは先行投資は行わない」などと動く気配もありませんでしたが、約束が違うという思いもありましたし、唯でさえ存続すら難しいとされるレーシングカー・コンストラクターの経営が安定するのがいつになるのか解りませんし、それまで技術力を維持することも難しいでしょうから、私は、妥協案として開発費が少なくて済む軽四クラスのスーパー・スポーツカーの開発を提案しました。
しかし、オーナーが変わっただけで、今まで、専用のレーシングカーを開発してルマン24時間レースに挑戦を続けていたのが夢か幻かと思えるほどにレーシングカーの開発が遠くに感じられるようになっていましたし、童夢に対してレーシングカーを開発する事を提案したり勧めたりする事こそ違和感に溢れていて、熱心にレーシングカーの開発を提案している自分の立ち位置が解らなくなるほど不思議な感覚に陥っていました。しかし、結局「当面は何もしない」という事でボツになりました。
「K4SS」
もともと、童夢の帳簿も決算書も実印すらも見たことのない、交通違反以外に司法の世話になったことのない私が、金がらみの裁判をしているのですから、それは、フランス語とギリシァ文字の書類をやり取りして戦っているようなもので、隔靴掻痒どころか、その頃のストレスは半端ではありませんでした。
あまりの怒りに元嫁との戦いに没頭してきたものの、本質的には空しい作業の連続であり、正直、飽きていましたし、どうしてもモチベーションを保つ事が難しくなっていましたから、いつしか、裁判書類を調べる手を止めて、気が付けば車のスケッチをしているようになっていました。
私はあきらめの悪いところがありますし、それが執拗に目的を完遂する原動力にもなっていましたが、その絵は小さな小さなスーパー・スポーツカーばかりで、これは、初期の童夢に提案した軽四クラスのスーパー・スポーツカーのコンセプトそのものでした。
今更、何千馬力を競う超ど級スーパーカーには全く興味がありませんが、繊細なドライビングが要求されるライトウェイト・スポーツカーには興味がありましたし、小さな車体における安全性の向上というテーマは、そのままレーシングカーに応用できる技術分野ですから、意味も意義もありました。
また、なかなかクルマ作りに動き出さない童夢を巻き込む作戦として、私が「鈴鹿の車を作りたい若者集団」を使ってJAF-F4のシャシーを使ったプロトタイプを製作し、具体的な形を見せることによって、その後の童夢への開発業務の移管をスムーズにする効果も目論んでいました。
レーシングカー作りに寝食を忘れてきた私としては、このK4SS(2016年~)をスタートさせればクルマ作りに熱中して元嫁との戦いの呪縛からも解き放たれると思っていましたが、日々、弁護士から聞かされる理不尽な展開に怒り心頭に発していた私は、解き放たれるどころか、ますます熱くなっていましたし、「鈴鹿の車を作りたい若者集団」への指示も後手後手に回るようになっていました。
加えて、やはり経験の少ない「鈴鹿の車を作りたい若者集団」による基本レイアウトは思うように進捗せず、契約期間内の完成は絶望的となっていましたので、開発を早い目に童夢に移管する事にしたところ、「鈴鹿の車を作りたい若者集団」の作業内容や費用等において幾多の問題点が露見し、いわゆる揉め事となり移管が難しくなっていました。
そんな頃、私は心筋梗塞で意識不明に陥って倒れてしまいましたが、幸い、家族が横にいたから助かったものの、それやこれやが重なり、K4SSの再構築にかけるエネルギーも途切れたままに、このK4SSも頓挫してしまいました。
「信じられない惨敗」
2012年の紛争開始から5年の歳月を元嫁との戦いに明け暮れてきた訳ですが、2017年になって訴訟提起していた5件の裁判に全て敗訴し、全てを取られてしまいました。
なぜ負けたのかと言うと、元嫁が全て嘘で固めた主張をして裁判所がその全てを信じ込んだからですが、その中には「何回も金を貸して返していない」とか「生活費を一切負担していなかった」とか「元嫁の名声と社会的信用を充分に利用していた」などの有り得ない主張が数多く含まれていましたから、一応、それなりのプライドをもって生きてきた私としては看過しがたく、そのような不名誉な嘘を暴いておかなくては泣き寝入りも出来ません。
巷での噂も、裁判に負けたことで、なお更に私に不利な内容となって拡散していましたから、なんとか事実を詳らかにしようとドキュメンタリーである「ブラジャーVSレーシングカー」の執筆に、日々、時間を費やしていました。
「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクト
2019年1月に、やっと第三書館から「ブラジャーVSレーシングカー」が出版され、ちょっと一息ついていた頃、いろいろな状況と必要性も生じていましたが、基本的には私の虫が騒ぎだしたのでしょう、私が費用負担して童夢に発注する形でロードカーを開発する流れになりつつありました。
K4SSで進めていたコンセプトを煮詰めなおして、究極の安全性を求める「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクトを立ち上げる事にしたのですが、ある程度、進めたところで諸般の事情としか言いようがない事態により、このプロジェクトも前に進められなくなってしまいました。
(内容に関しては企画書「[絶対に死なないスポーツカー]開発プロジェクト」を参照してください)
現在の話なので、いろいろオブラートに包んだような言い方しかできませんが、はっきりしている事は、又もやお蔵入りになってしまったという事です。
「[童夢-零]から始まり零で終わる」
「童夢と林の最後の夢」は破綻の止むなきに至り、それではと、プロジェクトを軽量化したライトウェイト・スポーツカーの開発計画の「K4SS」も途中で空中分解となり、ある事情から再挑戦する事になった「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクトも中止に至り、まあ、見事にすべての夢も希望も霧消してしまいました。
そこそこツキだけで生きてきた私としては、晩年になって、ついに運も尽き果てたのか、やる事なす事、全てが裏目に出るようになっていましたが、私が、こういう状況を見越して2015年に引退したのなら先見の明を褒めていただきたいと思います。しかし、元嫁との紛争地獄に落ちるまでの67年間を好き放題に生きてきた私としては、トータルすれば文句を言う筋合いはないと思っていますから、これからは、運が尽きたことに留意しながら注意深く余生を全うしようと思っている次第です。
ここまで、ご笑覧いただきありがとうございました。以下のように、本件に関する資料はいろいろありますが、ぜひ、本ホームページのコラム「ブラジャーVSレーシングカー digest版」だけでもお読みいただき、私の身に降りかかった地獄のような災難にもお目通しください。
コラム/小冊子 「ブラジャーVSレーシングカー digest版」
第三書館版「ブラジャーVSレーシングカー」が長文すぎて不評なので、約1/10に圧縮したdigest版です。本ホームページのコラムにも掲載していますし、小冊子も制作しています。
コラム「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクト
「童夢と林の最後の夢」が破綻した後に、それでもクルマ作りを諦めきれずに、何とか実現してやろうと画策していたものの、最後の最後に立ち上げた「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクトも暗礁に乗り上げ沈没。とどめを刺されました。
書籍(林みのる著 第三書館より出版) 「ブラジャーVSレーシングカー」
この一連の紛争に関して、今までもフリーライターの執筆になる「クラッシュ」「クラッシュ Ⅱ」という本が出版されていますが、世間では、私の方が元嫁の資産を取りに行っているがごときの噂が広がっていますので、それを払しょくするために私自身が執筆して上梓した本です。最も詳しく説明しています。
書籍(丸山昇著 第三書館より出版) 「クラッシュ」「クラッシュⅡ」
早い時期に、この事件に興味を持ったフリーライターの丸山昇氏と第三書館がルポルタージュとして出版した本です。取材を中心とした構成で、当事者の私とは全く異なったアングルからの視点で書かれていますが、洋子側が完全なる取材拒否を貫いていますから、著者としては不本意な出来栄えという事です。
COLUMN / ESSAY / LETTER
Aug.01 2019 「絶対に死なないスポーツカー」開発プロジェクト
COLUMN / ESSAY / LETTER
Jan.01 2019 HAPPY NEW YEAR
木林は、明けて1歳と3ヶ月になりました。一昨年来、PCにかじりついて執筆していた「ブラジャーVSレーシングカー」が昨年末に上梓されたので一息ついていますが、しかし、本が出ただけで問題は何も解決していませんから戦いはまだまだ続きます。
それでも、少し余裕が出来たので木林と遊ぶ時間も増えましたし、カブト虫の幼虫のような赤ちゃん時代と比べると表情も豊かになり動作も可愛くて、気が付けば木林の相手をしていますが、決定的に体力が不足しています。
これから走り回るようになりキャッチボールとかプールとか言い出したら対応のしようがないので、今後、レンタルの若い父親みたいなのが必要になるなと思っています。まあ、否応なく子供中心の生活になりつつあるこの頃です。