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「社会とレース界と私の間の高い壁」-社会/レース界評論-

私は若い時から自動車レースだけに夢中だったから、その他のことには全く関心がなく、およそニュースなどの社会情報からは完全に目を背けて生きてきた。
しかし、10代からのめり込んでいた自動車レースの世界が、いつまで経っても、あまりにマイナーな状況のままだったから、40代も半ばになった頃に、遅まきながら一般社会における自動車レースの存在価値とか可能性みたいな事に興味を持ちだして、社会情報にも関心を持つようになってきた。

しかし、そこはあまりにも想像を絶する世界で、今まで海外に行っても、日本人であることを誇りに思っていたようなタイプの私には信じられないような現実が見えてきた。
特に日本の政治家については、今まで何となく、特別に選ばれた特殊な能力を持つ優秀な人種であると信じていた概念が根底から瓦解し、政界は、凡庸なくせに金と権力だけに執着する魑魅魍魎だけが跋扈する異次元の世界に見えたし、その成すことのすべてが国益を損ない日本を破滅の淵へと導いているようにしか思えなかった。
何よりも、毎年、国家の税収に匹敵する借金を続けてまで土建屋に仕事を回し、後々まで維持費と管理費の発生するコンクリート建造物ばかりをやたらと作り、そこにまた天下りが巣を作るという、日本の将来の礎となる研究開発や人材育成には目もくれない政策により、日本の会社の5社に1社が建築関係と言われるほど器づくりにのみ邁進する様を見せつけられながらも、戦後数十年にわたって、そのあまりに露骨な利益誘導政治を支持し続けてきた、浅はかで心根の卑しい日本国民の振る舞いには心が萎えた。
当時の私にとっては大変なショックだったし少なからずの危機感を抱いたから、その時に今の私が居たらなら、政治家を目指して国の改革にのめり込んでいたかもしれないが、いかんせん、当時の私は、まだまだ自動車レースに夢中だったし、将来に希望も持っていたし、いずれ、日本を代表して世界の自動車レースを席巻するようなレーシングカー・コンストラクターになることに憧れきっていた時代だったから、嫌な感じだとは思いつつも、自動車レースを捨ててまで日本の改革に身を投じるというような気持ちは毛頭なく、汚いものから目を背けるように、レーシングカー造りに溺れる日々に戻っていった。

また、それから十数年の歳月が流れ、私がそれまで期待し続けてきた自動車レースの事業としての成功や社会的なメジャー化は、今や単なる夢物語にすぎないことが明白になっていたから、特に2000年のちょっと前頃から、ビジネスとしての成立は諦めていた。
そうは言っても、レーシングカーを作りたい病が癒えたわけではないので、ざっくりと言えば、事業化の夢は捨てて純粋に趣味として取り組むように気持ちを切り替えた訳だが、と言うことはレーシングカー作りの資金を稼がなくてはならなくなる。
自信があった訳では無く、そうしかレーシングカーを作り続ける手立てがないと解ったからだが、レーシングカーを作る資金が無いからスポーツカーを売って資金を稼ごうとした童夢の黎明期と変わらない発想だった。
とにかく、それまでに蓄積してきたレーシングカーの開発技術を一般産業分野に転用していくという方針でいろいろな事業を立ち上げていった。
現在、その中の、カーボン・コンポジット製品の開発/製造を主業務とする㈱童夢カーボン・マジックや風洞実験設備の「風流舎」等は、これからの童夢を支える屋台骨になってくれると期待している。
このように、レーシングカー・コンストラクターと言っても、小規模な事業の利益を散財して遊んでいるだけだからたいしたことは出来ないが、何んと言っても、自分で稼いで自分で使っているだけだから気楽なことはこの上も無い。
人間、気持ちに余裕を持ち始めると、きょろきょろとあたりを見渡してみたり、社会における自分の立ち位置を確認したくなったり、また、人生も終盤に近くなると今までの生き方を総括したくなったり、足跡を残したくなったりするもので、お約束のようなものだが、自伝を書いたり慈善活動をしてみたり政治に関心を持ち始めたりしている。

しかし、そこで見た現在の日本は、十数年前に垣間見た想像を絶する世界が、まだしも、ぬるま湯に思えるほど悲惨な状況で、もうじき1000兆円になんなんとする借金を子々孫々に残し、自国を守る手立てすらあやふやなまま、一方的な日米地位協定に甘んじ、特別会計の闇にも目をつぶったまま、放射性廃棄物の処理を担当するNUMOのTVCMでは子供に向けて「君たちの宿題だよ」とほざき、ヤクザ国家に国民を奪われても取り返しもできず、周辺では領土問題をすべて先送りし、近隣諸国に謝罪を繰り返し、経済力を失うのに同じくしてプライドまでも置き去りにしてしまったあげく、日本の唯一の拠り所であったはずの先進技術分野の育成をなおざりにしてきた結果、あらゆる産業分野でのアドバンテージを失い、最早、向かうべき目標も見えず、希望を持つことも夢を見ることも妄想にしか過ぎないような現実にやっと気が付きかけているが、もはや成すすべも知らないというお粗末さで、そこには、自動車レースがマイナーどころではない、国家そのものが沈没しつつある現実が浮かび上がってきた。

しかし、このような現実を眺めながらも、ほとんど隠居年齢の私に、今さら国家のために何も出来ることは残されていないし案ずるしかできないから、せめて、日本の自動車レースをまともな姿に戻す手伝いくらいは出来ないものだろうかと思うようになり、技術と産業の発展振興を礎として日本の自動車レースを改革するという目的で「日本自動車レース工業会(JMIA)」を立ち上げた。
ある意味、現在の日本と言う国のあり様と日本の自動車レースの世界は共通の構造欠陥を持っていると言えるから、技術と産業の発展振興を図ることによる日本の自動車レースの再生が成功すれば、日本の再建に向けての良きお手本となるかもしれないし、自動車レースの世界は極端に狭いから、スケール・モデルによる風洞実験のようなシミュレーションの役目を果たすかもしれないとも思えたものだ。

さて、日本の自動車レースは、自動車メーカーの自作自演の場としてのスーパーGTと、自動車メーカーの社会貢献風ドライバー育成カテゴリーに大別されるが、いずれも、自動車メーカーから流れる金に頼って維持されている。
つまり、日本のレース界というのは、いかに自動車メーカーに金を出させ続けて、いかにそこにしがみついているかが全てだから、現在、その恩恵に浴している多くのレース関係者は究極の成功者であり、また、それ以上は望むべくもないから、その特権にしがみ付く努力はあっても、特に日本のレース界に不満も無いし問題意識も無いのが普通だ。
GTレースは、日本と言うローカルな環境で自動車メーカーがお互いに微妙な調整を加えて勝ちを分け合っている状況だから、そこに本質的な戦いは無いし先鋭的な技術競争も生まれてこない。また、ほとんどのフォーミュラ・レースはドライバーの育成だけを目的に運用されているから、レーシングカーは輸入車に限定されているし、イコールコンディションを保つために一切の技術的関与が禁じられている。
つまり、主要な全ての自動車レースは日本の産業も技術も眼中には無く、フォーミュラ・レースはドライバーの育成に専心しているだけであり、その上、F1を初めとする主要な海外レースに参戦する場合は、決まって海外の技術に依存して資金を流出させて海外の企業の成長を助け技術力の向上に寄与する。
これらの自動車メーカーの露骨な日本の技術度外視の姿勢は、技術立国日本の基幹産業にあるまじき天に唾するような愚かな行為でありまことに腹立たしい限りだ。
そこにどんな意図があるのかは知らないが、その結果の将来に亘るダメージは計り知れないだろう。

そこでJMIAとしては、ほんの草の根運動にしか成り得ないだろうが、出来る範囲の具体策として、オリジナル・マシンを投入して技術競争の出来る数少ないフォーミュラ・レースであるJAF-F4(以下同)の発展振興を足がかりに、技術の戦いである自動車レースの復権を目指すことにしたが、それまでのF4はコストダウンを目的にCFRPモノコックを禁止していたので、基本的な安全性を確保するために、安価なCFRPモノコックの供給が必要不可欠だったし、レギュレーションの変更も必要だった。
その為に童夢では、1年以上の開発期間と多大な先行投資を行って、アルミ・モノコックよりも安い画期的な製法のCFRPモノコック「UOVA」を開発しJMIAより供給を開始した。
2010年度からのF4レースは、これらの新型F4が多数投入されたり、GTレースの前座に組み込まれたり、国土交通大臣杯が授与されることになったりと、目立って華やかになりつつあるし、来期に向けて非常に期待の持てる展開となりつつある。

ところがだ、このように我々のような非力な中小零細企業が、多大な時間と費用とエネルギーを投入して、日本の自動車レースに技術の向上と産業の発展を取り戻そうと必死の努力を続けているすぐ横で、自動車メーカーのレース関係者を中心に、つぎつぎと、我々の神経を逆なでするような有り得ない話が漏れ聞こえてくるから、もう、何ともやりきれない気持ちになるし、あらゆる努力が徒労にしか思えなくなってくるし、彼らとのあまりにも大きい思考回路のギャップに言葉も出なくなってくる。
曰く、「次期FCJもFルノーを中心に考えている」、曰く、「GT500にDTMシャシーの導入を検討」、曰く、「GT500全車に英国製ハイブリッドを導入」、こいつらは売国奴か? こんな、日本で、より高性能な製品が開発できる分野において、未だに、国内での供給の検討もせずに海外に依存する体質は、F1を外国企業に丸投げして貢ぎ続け、日本の産業も技術もないがしろにしてきた企業体質だから当然かもしれないが、そこには、愛国心と言う概念は欠片も無い。

今日(こんにち)、低価格商品の量販企業が幅を利かせているが、その売り上げの何十%は生産国である中国などに流れるし、ついに、日本の家電品の象徴とも言えた液晶テレビの大手企業までも生産を中国にシフトしたし、外国で生産した日本車が輸入されるし、全てのパソコンは外国製の部品とソフトからできているし、アメリカ 製のiPhone、iPadが若者を夢中にさせている。
そうして、日本の技術力は低下し創造力は萎え産業は疲弊して夢も希望も未来も雇用もなくなる一方、中国に流出したジャパンマネーが中国の軍備を拡充し、数百本のミサイルが日本に向けて設置され、潜水艦や航空母艦までも増強し、日本のEEZ内で挑発行動が繰り返えされている。
日本に対しては、まだ軽度な挑発で収まっているが、南シナ海あたりではベトナムやインドネシアやマレーシアなどに対して露骨な軍事的威圧行為が繰り返されており、これらの小国は屈辱的な譲歩を余儀なくされている。
中国は、大陸棚論を持ち出して中間線を歪めようとしているし、こともあろうか、沖縄まで中国の領土であるという主張も聞こえてくるようになった。
そんなに遠くないある日、尖閣諸島近くの海域で操業していた多数の日本漁船が拿捕されて連行され、中国軍が釣魚島に上陸して橋頭堡を築き始める頃、与那国の沿岸を悠々と徘徊する中国軍の脅威に怯えつつ、それでも日本という国は、刺激を与えないように息をひそめながら、自らの怠慢を棚に上げて平和的解決を訴え続けることだろう。

たぶん、技術の世界に生きながらも外国の技術にあこがれ傾倒するようなタイプの人種が増えてきた現状は、ことレース界の話に留まらず、今の日本の一般的な傾向なのだろうし、私が、この極端に狭いレース界においてさえ、いくら日本の技術力の育成の大切さを訴え続けてもどこにも声は届かなかったから、本質的な部分で、日本人の技術力に関するプライドは舶来崇拝を超えることは出来なかったと感じるし、誇りよりも合理性のほうが上司の理解を得やすいという風土が舵を狂わせてきたのだと思っている。
しかしそれでは、現在の日本人は何を支えに何を頼りに何を誇りに生きていこうとしているのだろう? 技術力の他に日本の誇りや頼りになる何があるというのだろう?
私は、「GT500にDTMシャシーの導入を検討」という話を小耳にはさんだ時に、「あり得ない」と一笑に付した。しかし以前、ホンダがレーシング・エンジンの開発をイルモアに外注したと聞いた時も、「あり得ない!いくらでも賭ける」と言ってあやうく破産しそうになったこともあるから、念のために確認してみたら検討されていることは事実だった。

こんなに、金をじゃぶじゃぶ遣ってまで日本の技術を葬り去ろうと企む工作員たちの真っただ中で、日本の技術力の育成の重要性を叫び続けてきた自分自身のKY度も滑稽だが、いかにも多勢に無勢、負けは認めよう。レース関係者がこぞって外国製品のカタログを見ながら買い物に熱中している横で、日本製品もよろしくお願いしますと頭を下げて回われるほど大人じゃないし問題の本質も異なる。勝手にすればいい。
ほんの65年前まで日本は、三百数十万人の日本人犠牲者を出したと言われる戦争の真っただ中だったし、そのちょっと前までは明治維新や戦国時代で殺伐とした時代だった。
しかしその後は、特需景気、神武景気、いざなぎ景気と高度経済成長時代が続き、我々の世代は、長らく、希望的で安穏とした、おそらく、この長い人類史上でも最高の時を過ごしてきたであろう。
この享楽的な時代を謳歌するために、子々孫々に1000兆円の借金を残し、電気を使いまくって大量の放射性廃棄物を地中に放置し、化石燃料を使いきって死んでいく無責任な現在の日本人の一人として、技術力の育成の大切さを訴え続けるという事が、せめてもの贖罪気分を支えているのかもしれない。
17歳の息子には、生んでしまった事を、少し、すまないという気持ちはあるものの、私自身は、人類史上でも最高の時を満喫して生きてきた超ラッキーに感謝するしかないし、文句を言う筋合いはどこにも無い。
出来れば、日本は国立の大研究設備を作り世界中のブレーンを集めて、核廃棄物の放射能を減衰させたり新たなる安全エネルギーを開発したり地球規模でCO2をコントロールするような発明に専心努力できるような環境が構築されていれば、我々も毎日、その成果に注目しエールを送り続けられるし、そこには、人としての誇りも希望も知恵もいっぱいに詰まった最後の拠り所と成りうるものを、今朝のテレビでは、未だに、道路やダムなどの公共事業の必要性を説く政治家が熱弁をふるっていたし、どのチャンネルも競って芸能人のスキャンダルを流し続けていたし、相変わらず、蹴ったり打ったり走ったりのスポーツの話題で持ちきりで、それはまるで、臭いものに蓋をしているかのごとくの作為や違和感を禁じ得ない、とても不愉快な目覚めとなった。
未だにトルーマンの3S政策が活きているのかと背筋が寒くなるが、小さくて狭い日本のレース界においてさえ、一石すら投じられなかった私としては、それこそ、臭いものに蓋をするように眼を閉じるしかない。

林 みのる